吉田玉男「アルバイトのつもりで行った文楽人形遣いの世界に魅せられ、中学3年で入門。人間国宝の知らせに、興奮して朝方まで眠れず」
玉男さんの第一の転機は、ごく平凡な生活をしていた中学二年生が、ふとした偶然から、生涯そこで名を馳せるまでになる文楽へ誘導されたこと、だろうか。 ――まさにそうやと思います。うちの近所にたまたま人形遣いの吉田玉昇(たましょう)さんという方がいて、この人は初代玉男師匠の預かり弟子という身分でした。 ある日のこと、文楽人形遣いの人数が足りないんでちょっと手伝いに来てくれへんか、と言われて、なんにもわからずアルバイトのつもりでついて行ったら、道頓堀の朝日座の楽屋の廊下にズラーッと文楽の人形が並んでいるのを見て、その光景に圧倒されましてね。不思議な、面白そうな世界やなぁ、って。 もうその日から、学生服のズボンの上に黒衣(くろご)を着せていただいて雑用のお手伝いなんですが、でもその時、文楽協会ができて初めての通し狂言『絵本太功記』を行うことになったので、人手不足で人形持たしてもろて舞台に出たんですよ。「尼ヶ崎の段」の幕切れ、真柴久吉方の軍兵。一人で持って出るツメ人形(一人で遣う、その他大勢の役の人形)ですけどね。 そしたら次の日お袋とおばあちゃんが観に来て、朝日座には二階がありましたのでね、そこから、「あぁ、出て来た出て来た」と言ったりして。頭巾かぶらずに顔出してましたから。嬉しかったです。 それで中学三年の時に、両親を説得して正式に文楽入門です。両親は高校へ進ませたかったし、鉄工所の仕事も継がせたかったみたいですが、僕は勉強嫌いやし、まぁ、できなかったしね。(笑)
まだ四十代だった初代玉男師匠の最初の直弟子となった玉男さんに、師匠は初め吉田玉若(たまわか)と命名する。しかしそれから数十日後に師匠の気が変わって、吉田玉女(たまめ)に改名となる。 ――名前を頂いてそのつもりでいたら、「やっぱり玉若やめておくわ。玉女にする」って。そしてポツンと「早く女から男になれるようにな」って。師匠の真意は今もってわかりませんが、何だかありがたい気がしました。 それでずっと師匠の人形の足を持たしてもろたんですが、うちの師匠の人形は真ん中でじっと動かないのが多いんで、僕は足持って何十分もただじっとしてる。すると腕がすごく痛くなって、しまいにはしびれてきます。 他の足遣いを見てると、動きが多くて結構いろいろ覚えられる。それで師匠に、「もっと動き回る足を遣いたいです」と言ったら、「動く足はいつでも遣えんねん」って。ほんまかなぁ、と思いましたけど、動かないでいると他の人形の動きや位置関係、全体の様子を見ることができる。それで動く足を遣う段になったら、すんなり対応できましたからね。 師匠にはまた、「他の人間が注意されてる時は、よく聞いておけよ」とも言われました。これもいい勉強になりましたね。 入門して苦しいことばかりやなく、楽しいこともありました。中学は卒業しましたから修学旅行で東京へ行きましたけど、僕はもうその前に公演で東京へ連れて行ってもらってましたから、みんなにそれをずいぶん羨ましがられて、自慢でもありました。海外公演にも結構若い時分から行けてますから、それは楽しかったです。 (撮影=岡本隆史)
吉田玉男,関容子
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