〈一村の少女全部が姿を消す〉〈娘売る山形の寒村〉…未曾有の「世界恐慌」が日本にもたらした“失業地獄”の惨酷な現実【昭和の暴落と恐慌】
涙で語る失業苦難、大東京はかく無情
庶民生活が逼迫の度を深めていった1930年。経済の雲行き同様、4月に統帥権干犯問題が起き、11月には浜口首相が右翼青年に狙撃され、政治の世界も、きな臭さをいや増していくばかりだった。 ちなみに、小津安二郎監督の名作映画「大学は出たけれど」が封切られたのは、小林多喜二の『蟹工船』の発表と同じこの前年、1929年のことである。 就職難が生じている世相であれば、当然、失業者も町に溢れる。 〈職も無く食も尚無く 涙で語る失業苦難 押寄せた登録者三千名突破 大東京はかく無情〉(同年5月20日付) 〈あはれな行倒れ 失業して三日間食へず 帰国しようと駅まで出て〉(同年6月7日付) 〈仕事と言つて家は出たが……月島海岸にうさを晴らす失業者〉(同年6月27日付) 勤め人に限らず、商売人とて厳しい生活を強いられていたのには変わりない。同年5月号の「文藝春秋」は、「不景気の真相」と題された記事の中で、ある葬儀のこんな証言を紹介している。 〈随分立派な葬ひを出して置いて、夜逃げする人がある〉
隣の声が壁越しに聞こえる長屋に転居
1919(大正8)年生まれで、東洋大名誉教授の岩井弘融氏(89)の夜逃げ目撃談。 「当時、私は佐賀県の唐津におりましたが、親類の者が近くで小さな銀行をやっており、私もよく遊びに行っていました。ある時、その銀行に大勢の人が集まり、ワイワイと騒いで行列を作っているのを、私は見ております。農家の方やサラリーマンが押し寄せ、取り付け騒ぎになっており、子供心にもその光景は脳裏に焼きついています」 そして銀行を経営していた岩井氏の親類は、 「いくらで買い取ってもらっても良いからと、銀行の跡地を私の父親に押し付け、宮城県の仙台まで、夜逃げ同然に慌ただしく引っ越していきました」(同) さらに、1918(大正7)年生まれで、東大名誉教授の大田堯氏(90)は、ご本人が家を追われる体験をしたと語る。 「恐慌ではっきり記憶に残っているのは、親父が破産したことです。広島県内の村に住んでいたのですが、親父は地元の紡織関係の会社に株主として投資していました。その会社が恐慌で潰れ、広かった家屋敷も含め、我が家の家財道具まで差し押さえられて、ベタベタと赤札を貼られていった。それを母親が辛そうに見ていたのを憶えています。その後、一家で、隣の声が壁越しに聞こえる大阪市内の裏長屋に移り住みました」