病室の孫正義は孤独だった。「夜、ひとり泣きました」ソフトバンク草創期の闘病生活
1年で社員数が30人から125人に増え、売上は20億円から45億円へ。1983年、ソフトバンクは破竹の勢いで成長していた。社長の孫正義は、当時まだ25歳。昼夜問わず働き続け、体がだるいのは多忙のせいだと思っていた。だが検査を受けたところ、当時は不治の病と見られていた、慢性肝炎にかかっていることを告げられてしまう。絶望する孫を勇気づけた1冊の本とは?※本稿は、井上篤夫『志高く 孫正義正伝 決定版』(実業之日本社文庫)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 点滴の流れを見つめながら 「人生の意味」を問い続ける 病室の孫正義は孤独だった。 会社はようやく軌道に乗ってきた。ところが、これから5年生きられるかどうかもわからない。 娘は1歳半。新しく生まれてくる子どものためにも生きたかった。だが、現実にはベッドに仰臥して点滴の流れを凝視するしかなかった。このままじっと死期を待つのか。その時期がいつなのかわからない。退院できたところで、いつ再発するのかわからない。不安に耐え、身を削りながら細々と生きていかなければならない。 人生とは? 誰のために生きているのだろう? 自分のため?家族のためか? それとも社員のため、顧客のため? だが、もっともっと深く人生を生きられないか。 自分や家族のためだけでなく、広く世のなかのためになることができないか。 1回きりの人生ではないか。 このとき孫は、必死に人生の意味を問いつづける求道者といってよかった。 当時の苦しい胸の内を私に打ち明けてくれた。 「夜、病室でひとり泣きました。治療が苦しいからじゃないんです。まだ、子どもも小さいし、会社も始動したばかり。どうしてこんなときに死ななければならないのだろう。病気のことは秘密にしておかないと、銀行からは融資をすぐにでもストップされる。そのために、こっそりと病室を抜け出して会議などには出ました。そのときに徹底的に考えたのです。自分はなんのために仕事をしているのかと……。その結論が、人に喜んでもらえる仕事がしたいということでした」 病床にあっても事業のことが頭から離れることはなかった。