松山猛が語る加藤和彦、ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンド
当時では珍しいタイプのラブソング
もしも,もしも,もしも / 加藤和彦 田家: 1971年のソロ・アルバム『スーパー・ガス』の中の「もしも,もしも,もしも」。さっきの「家をつくるなら」も「もしも,もしも,もしも」もそういう意味では当時では珍しいタイプのラブソングでしたよね。 松山:そうですね。回りくどいラブソング(笑)。 田家:この2曲を選ばれているのはあらためてこれを知ってほしいとか。 松山:僕らの仕事の中でもわりとまだ純情だった部分がいっぱいある時代の歌ですよね。僕はあまりラブソングを書いたことないんですけど、この2曲はいつまでも聴いてほしい歌だと思います。さっきライブでね、「家をつくるなら」で3番か4番、タイヤをパクってきてって言ったでしょう。あれは太陽を盗んできてが本当ですよ(笑)。 田家:なるほどね(笑)。 松山:でもね、エコロジーを考えていたんですよね。あの頃ね。自然エネルギーを取り入れて暮らそうよみたいな気分で書いていますからメッセージソングでもあるんです。 田家:この「もしも,もしも,もしも」はそういうところがありますよね。 松山:そうですね。逆転の世界ですけれども、回りくどいという(笑)。もっとストレートに好きって言えばいいのになという。 田家:北山さんが「コブのない駱駝」があるように、やっぱりこういうちょっとひねった形のラブソングがありますもんね。 オーブル街 / ザ・フォーク・クルセダーズ 田家:1968年7月発売、加藤和彦さん、北山修さん、はしだのりひこさん、第二次のザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『紀元弐阡年』から「オーブル街」。作詞はもちろん松山さん。これはフォークルの名曲の中の1つですもんね。 松山:そうですね、ははは。 田家:これは以前伺ったときに驚いたんですけど、イメージが京都の御所だった。 松山:御所の森を見ながらイメージしたところがあります。「オーブル街」というのは空想の街なんだけど。 田家:これをお聴きになった方は大体フランスのブローニュの森とか、そういうのを思い浮かべますもんね。 松山:そうそう、まだフランス行ったことなかったので、当時は。御所でちょっと代用しちゃったというかね。でも悲しい気持ちをいっぱい込めて作った詞です。 田家:これは詞が先にあって? 松山:たぶんそうだったと思います。 田家:フォークルは詞も書いたりされるので、あまり松山さんと加藤さんというコンビは数があまりないですもんね。 松山:フォークル時代は僕はオブザーバーというか、おまけの一人みたいな感じだったから何曲かは提供しましたけど、彼らが忙しくなっちゃったの、プロになって。10カ月間、間が空くんですよ。 田家:期間限定でプロになって、日本中を席巻したわけですもんね。 松山:北山くんは学業に戻らなきゃいけなくて、お父さんとの約束でお医者さんの息子なんでね。 田家:松山さんは代理店でしたっけ? 松山:当時は広告代理店にいたときに、ヨッパライが売れちゃったんですよ。その広告代理店の社長がすごくおもしろい人でかわいがってくれたんだけど、その後いろいろあって会社を辞めましてね。小さい「デザインキュー」というところに拾ってもらって、そこでコツコツとデザインをしていたんです。毎日電話かかってくるようになったんですよ。というのは、プロのフォークルが解散しちゃって、北山は学業に戻ったから。 田家:あ、加藤さんからね。 松山:一緒にやるやつがまたいなくなっちゃう。で、加藤くんとそれこそ高崎一郎さんが来てくれ来てくれっていう感じで。 田家:東京へ来いと。 松山:そう。それで1969年の12月に東京に出てきました。 田家:それは作詞家になるというふうに意識されて? 松山:いや、僕はプロになろうと思っていなかったから、どちらかと言うと東京でもデザインの仕事がしたいと。ちょうどan・anが始まる頃で加藤くんの知り合いの川村都さんとか、堀切ミロさんとか、彼女らがおもしろがってan・anに連れて行ってあげるって、堀誠一さんっていうアートディレクターの方と知り合って、僕も雑誌の仕事をするようになったんです。 田家:加藤さんは俺の曲の詞はお前が書いてくれと。 松山:しばらく一緒にやろうよみたいな。 田家:『スーパー・ガス』は全曲ですもんね。そのアルバム『スーパー・ガス』の中から松山さんが選ばれた次の曲「不思議な日」。