多くの日本人が“カン違い”している「天下布武」の意味 じつは「全国統一」ではなく「京都を守る」スローガンだった
信長の「天下布武(てんかふぶ)」について、どういった意味でイメージされるだろうか。「天下を武力で統一する=全国統一」といった意味で捉えている方が多いのではないだろうか? しかし、じつはここでいう「天下」とは、京都の周辺を指していた。信長が何を目指しているのか、改めて見ていこう。 ■信長の武力志向とは別のスローガンを表す 信長は、永禄10年(1567)8月、斎藤龍興の居城稲葉山城を落とし、龍興を美濃から逐(お)い、美濃を併合すると、居城を小牧山(こまきやま)城から稲葉山城に移し、名を岐阜城と変えている。美濃の奪取は、信長にとって、「天下」への夢をつなぐものであった。 早くも、この年の11月から「天下布武」を印文とする印判状が発給されているのである。今日、現物として伝わる最も早期のものは、兼松又四郎宛のものである(『兼松文書』永禄十年十一月付)。 印の形も、はじめは楕円形で元亀元年(1570)からは馬蹄形となり、天正5年(1577)からは双龍がとりまく形となっている。印文「天下布武」は『政秀寺記録』によれば政秀寺の開山である妙心寺派の禅僧沢彦宗恩(たくげんそうおん)が選んだという。 この「天下布武」を、ただ、「武力によって天下を取ってやろう」という信長の宣言ととらえるむきもあるが、それでは信長のめざしたものが見えてこない。 権門体制(けんもんたいせい)論といういい方がある。中世は、公家(朝廷勢力)・寺家(寺社勢力)、武家の三つの権門から成り、信長は武家が天下の権を握る社会を作りたいと考えてこの言葉をスローガンとして掲げたわけである。 問題は、この「天下」という言葉である。後に豊臣秀吉による天下統一の動きがあるので、天下を日本全国の意味ととらえがちである。しかし、このころの天下は、日本全国ではなく、すでに神田千里氏が『織田信長』で述べているように、室町幕府将軍足利氏が管轄していた京都を中核とする五畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)からなる中央領域とその秩序を意味していたのである。 したがって、信長が印文にし、スローガンとして掲げた「天下布武」はいずれの日か、流浪中の足利義昭を将軍として擁して上洛し、将軍を中心とした畿内の秩序回復をめざしたものといってよい。 この点で注目されるのが金子拓氏の指摘である「「天下=畿内」の静謐が判断基準……領国を拡大させた信長の戦いの構図とは」(歴史街道編集部編『戦国時代を読み解く新視点』)で、太田牛一の『信長公記』自筆本の奥書(おくがき)に、「信長京師鎮護十五年」の文字がみえるというのである。信長の「天下布武」とは、まさに「京師(京都)鎮護」だったのである。 ■京都と朝廷を重視していた信長 その京都には、信長の時代正親町(おおぎまち)天皇が君臨していた。よく、信長と朝廷は対立していたといわれることもあるが、最近の論調は公武協調が基調となっている。 たとえば、呉座勇一氏は『戦国武将、虚像と実像』で「信長が行ったことは基本的に朝廷の機能強化である。朝廷政治の腐敗を正し、朝廷の権威を高めようとしたのである。もし信長が天皇を乗り越えようと考え、朝廷と対立していたのだとしたら、むしろ朝廷の政務を骨抜きにするはずだ」と述べている。最近の、朝廷と信長の関係研究の一端が垣間見られる。 監修・文/小和田哲男 歴史人2024年12月号『特集・織田信長と本能寺の変』より 一部を抜粋・再編集
歴史人編集部