親パレスチナ団体はなぜ絵画を切り裂いたのか。環境問題やパレスチナ侵攻とアートについて「セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義)」の視点から考える(文:Maya Erin Masuda)
絵画への攻撃が止まない
2022年から環境保護団体らが抗議活動の一環として行なってきた芸術作品への攻撃が止まらない。そんななか、今年3月8日に親パレスチナ団体「パレスチナ・アクション(Palestine Action)」が行ったバルフォア卿の肖像画への攻撃は、ガラスケースなどではなく絵画自体を直接傷つける攻撃を行った点で、一線を画すものであった。 こうした絵画への攻撃はなぜ止まないのか。また気候危機から、ロシアによるウクライナ侵攻、そしてイスラエルによるパレスチナ侵攻へと至る近年の深刻な政治的問題について、アートを通して何をどのように考えることができるのか。2022年にTokyo Art Beatに論考「ゴッホにモネ、なぜ環境団体は「絵画」を標的にするのか? ウクライナ侵攻後の欧州情勢や思想的背景から探る」を寄稿した筆者が、いま改めて本テーマについて考察する。【Tokyo Art Beat】
連続する絵画への攻撃を改めて考察する
ウクライナ危機、石油価格の上昇、そしてイスラエルによるパレスチナ侵攻──昨年から続く世界情勢の変動を反映するかたちで、活動家による絵画に対する攻撃が増加、またその手法も様々に多様化している。本稿では、セトラー・コロニアリズム(入植植民地主義、もしくは定住型植民地主義)、エコロジー、そして土地と人を結ぶ「親密さ」といった文脈から、 帝国をめぐる「記憶」と「記録」について考察する。
パレスチナ・アクションによるバルフォア卿肖像画への攻撃
昨年から、環境活動団体による絵画を媒介とした抗議活動が相次いでいる。ゴッホの《ひまわり》につづき、モネの《春》。2024年1月に起きた《モナ・リザ》のガラスへの攻撃(*1)は記憶に新しい。これらの絵画への攻撃は、以前この原稿(*2)で論じた通り、ほとんどのものは作品の破壊を意図しない、ガラスという絵画と観客を隔てる物質を標的にしたものであり、またその手法も、ガラスへの身体の貼り付けや貧しい環境で死んでいった画家への共感など、「親密さ」を基調とするパフォーマンスであった。 だが、それらの活動と一線を画すかたちで現れたのが、パレスチナを支持する団体「パレスチナ・アクション(Palestine Action)」によるバルフォア卿の肖像画への攻撃(*3)である。この絵画はフィリップ・アレクシウス・ド・ラースローによって1914年に制作され、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに収蔵されている。 今回標的にされたバルフォア卿(アーサー・バルフォア、イギリス元首相)は、 パレスチナで後に民族浄化を引き起こす原因のひとつとなった1917年のバルフォア宣言に外相としてサインをした人物である。当時イギリスの領土でもない、かつ当時先住のアラブ人・キリスト教徒などが人口の90%を占めていたパレスチナに、シオニストの「郷土」を建てることへの支持を約束するその宣言は、中東におけるイギリスの戦争責任を問うものとして、現在でも国際社会で物議を醸している(*4)。こうした入植行為はセトラー・コロニアリズムと呼ばれ、植民者が特定の土地を永久的に占領し、すでに存在する社会を植民者のもので置き換える行為のことを指す。 今回絵画への攻撃を通して抗議を行ったパレスチナ・アクションは、こうしたイギリスの戦争責任を追及するとともに、イスラエル最大の武器会社であるエルビット社と、エルビット社に出資をするイギリスの共犯関係について言及しており (*5)、バルフォア卿の絵画を所蔵していたケンブリッジ大学による、エルビット社への多額の寄付(*6)も批判の対象となる。こうした点から、今回の抗議はイギリスの帝国主義そのものに向けられたものであり、これまでの環境活動家のパフォーマンスとは、意図においても手法においてもまったく異なるものであることはまず初めに述べなければならない。 だが、絵画を標的とした切り裂き、ヴァンダリズムと呼ばれるものは、これが初めてではないのも事実である。イギリスでフェミニズムを訴えたサフラジェットのメアリー・リチャードソンが、女性の参政権への訴えとしてベラスケスの絵画を切り裂き(*7)、それが環境団体「ジャスト・ストップ・オイル(Just Stop Oil)」のインスピレーションとなったように(*8)、これらの運動同士は、長いあいだ互いに有機的に手法的影響を与えてきた。そしてジャスト・ストップ・オイルを初めとする複数の環境団体は、パレスチナ・アクションによるこれらの活動の公式な支持を表明しているのである(*9)。これらの運動が交差する場所に、いったいどのような背景があるのだろうか。また我々はこれらの破壊行為の正当性を、どのように見出せば良いのだろうか。