蒙古襲来750年:元軍が初上陸、内陸の大宰府に迫る
持田 譲二(ニッポンドットコム)
今から750年前、元の船団はついに博多湾に姿を現わした。初めて目にする外敵を当時の人々は「異国襲来」として恐れた。威嚇が目的だったのか、元軍はたった1日で退却したというのが従来の定説だが、最近の研究では内陸部の要衝・大宰府辺りまで攻め込んで来たとの説が浮上し、注目されている。日本は元軍を退けたが、再侵攻に備え博多湾一帯に防塁を築いた。
博多湾上陸
元は支配下に収めた朝鮮半島の高麗に軍船を建造させ、大船団が高麗の合浦(がっぽ)から日本に向かった。1274(文永11)年10月20日(旧暦、以下日付は旧暦)の夜明け前、対馬や壱岐といった日本の防衛線となる島を突破していた約900隻の船団が博多湾に姿を現わした。「文永の役」である。 人馬を乗せた大型の母船、兵士用の小型突撃船(バートル船)、食料・水を積んだ補給船など大小さまざまな船が侵入し、騎馬兵が上陸を試みた。元の指揮下、かなりの高麗人兵士が動員され、実態は「元・高麗連合軍」だ。兵士の数は諸説あり、「数万人」といったところか。 蒙古襲来の研究者として知られる元九州大学大学院教授の服部英雄氏の見立てによると、船団は博多湾沿岸の主に3カ所に向かってきた。中でも元軍が戦力を集中させてきたのは湾の中央部の鳥飼浜だ。 鳥飼浜は今では埋め立てられ、福岡PayPayドームがあるので、もう一つの上陸地点の今津から浜に降りてみた。北の方向に目をやると、山型に膨らみ、漁業が盛んな玄界島が見える。博多湾の入り口よりもやや沖にあるが、陸地からさほど距離がないように感じられる。強い風と速い海流に乗って、元の軍船が湾に差し掛かって上陸するまで、さほど時間を要しなかっただろう。
新兵器を駆使した元軍
鳥飼浜の合戦の模様は、有名な『蒙古襲来絵詞(えことば)』(※1)にも、描かれている。短弓で攻めかかる元軍兵士に対して、肥後国(現在の熊本)の御家人、竹崎季長(すえなが)が馬上から弓を放ち敵に命中させたものの、馬は敵の矢を受け血を流している。さらに元軍の火器「てつはう」がさく裂しているためか、竹崎の馬は驚いてあらぬ方向を向いている。 「てつはう」は、後の「弘安の役」(1281年)の舞台の一つである長崎県・鷹島沖海底で発見され、実在が確認されている。直径13センチほどの陶器製の球体で、火薬が詰め込まれ、導火線で爆発する仕組みだ。『八幡愚童訓』という史料には、「鳴る音が大きいので、(日本兵は)心を迷わし、肝をつぶし、目はくらみ耳は鳴って、ぼうぜんとして方向を失ってしまう」と表現されている。九州大学が撮ったCT画像には、鉄片と陶器片のようなものが映し出されており、殺傷能力もあったとみられる。