蒙古襲来750年:元軍が初上陸、内陸の大宰府に迫る
博多湾に「石の防壁」
初めての異国からの侵攻で死傷者を出した幕府は、再侵攻の恐れがあると警戒を強め、防衛強化に乗り出す。元軍が騎馬で上陸してきた衝撃から、「石築地(いしついじ)」と呼ばれる防塁を博多湾沿いにぐるりと張り巡らせた。総延長20キロに及ぶ「石の防壁」だ。 『蒙古襲来絵詞』に登場してくる「生(いき)の松原の防塁」は実際に存在する。博多湾の中西部(現在の福岡市西区)の海岸沿いに200メートル近くの石垣が並ぶ。防塁の裏側に立つと、博多湾が前面に広がる。強い風と波のうねりに乗って、元の軍船が迫って来るかのような錯覚にとらわれる。 石垣の高さは2メートル以上あり、前面は砂浜だ。「元の騎馬隊が上陸しても砂浜で足が取られやすくなるし、高い石垣を乗り越えるのは困難。その間に幕府軍は上から弓で狙い撃ちできる態勢にあった」と、九大の福永助教は話す。
さらに博多湾西部にある「今津防塁」は、「生の松原」に比べて、石垣に厚みがあり、形状が異なる。防塁は鎌倉幕府から号令がかかって、わずか半年以内の急ごしらえだったため、九州各地の御家人が総がかりとなった。生の松原は肥後国が作ったのに対し、今津は大隅国(現在の鹿児島)と日向国(現在の宮崎)が担当し、造りに違いが出た。 「文永の役」で馬と共に上陸してきた元軍は、7年後の再侵攻「弘安の役」時には上陸すらして来なかった。湾内に侵入した元の船団からは防塁が張り巡らされているのが目に入ったからではないかと言われている。「石の防壁」は見事に抑止力の役割を果たしたのである。(第3回に続く)
●道案内
・生の松原防塁:JR筑肥線・下山門駅から北へ徒歩10分 ・今津防塁:JR筑肥線・今宿駅から北へ車で15分 ・福岡城址:地下鉄空港線・大濠公園駅から徒歩3分 ・祖原山:地下鉄空港線・西新駅から南方向へ徒歩15分 ・大宰府政庁跡:西鉄・都府楼(とふろう)前駅から徒歩15分
注釈
(※1) 『蒙古襲来絵詞』は元との戦いに参集した肥後国の御家人、竹崎季長(すえなが)が自身の活躍ぶりを絵師に描かせた絵巻。「メモ書き」も添えられている。恩賞欲しさに多少の脚色も含まれているだろうが、同時代性があり、史料価値の高い国宝指定の絵巻だ。 (※2) 日本は663年、百済と共に、新羅・唐と戦った「白村江の戦い」で敗北。報復を恐れて、大宰府政庁防衛のため翌664年に水城と呼ばれる土塁を築いた。高さ9メートル、長さ1.2キロあり、外側には堀を巡らして川から導水した。
【Profile】
持田 譲二(ニッポンドットコム) ニッポンドットコム編集部。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量、ラーメン食べ歩き。