蒙古襲来750年:元軍が初上陸、内陸の大宰府に迫る
このほか、兵器面で大きく違ったのは弓だ。日本の長弓は遠くへ飛ばすことができるが、馬上での機動性に欠ける。また「右利き用に作られているので右に矢を放てず、敵を左側にする位置取りをしないと射ることができない」と服部氏。これに対して、元軍は機動性のある短弓を使っていた。 新兵器や騎馬の機動力を見せつけて、「緒戦は元軍が幕府軍を押し気味だったのでは」と、服部氏はみる。
警固所
元軍が鳥飼浜に戦力を集中させてきたのは、その近くにある「警固所(けごしょ)」と呼ばれる幕府側の防衛拠点の攻略が狙いだった。警固所は、後の江戸時代に福岡城が築かれた高台にあったとされる。服部氏は「ここを陥落させることができれば、前線基地にできるし、日本の武器も手に入る」とし、元軍は内陸部への侵攻を視野に入れていたとみている。 それにしても、日本と交流のなかった元軍は博多湾や警固所をターゲットにすることをどうやって思いついたのだろうか。九州大学総合研究博物館の福永将大助教は「日本に盛んに出入りしていた南宋をはじめとする大陸や朝鮮半島の商人、僧侶が情報源になった可能性がある」と推測する。元に侵攻されていた南宋には、友好国の日本に元の情報をもたらす者もいれば、逆に元に取り入り日本の情報を提供している者もいて、二面性を帯びていたのではないか。
「大宰府合戦」
10月20日、鳥飼浜で日本軍と一戦を交えた元軍は、高台の警固所を攻めきれず、その日の晩は近くの祖原山に陣を構えた。ところが、元軍は翌21日には踵(きびす)を返すかのように姿を消してしまったというのが定説になっている。「神風が吹いて退散した」という説は否定されているものの、元は日本に通交交渉の席に着かせる狙いで、武力で威嚇しに来ただけと言われている。「予定通りの退却」説である。 これに対して、新説を打ち出しているのが服部氏だ。『関東評定伝』という史料の中に、上陸4日後の10月24日に「大宰府合戦」との記述があることに着目。元軍は要衝の大宰府近辺まで南進したとみる。 大宰府には7世紀、日本の防衛・外交の最前線として、政庁が置かれた。大陸と近い九州の地に築かれた朝廷の重要な出先機関だ。海に近い博多では、迎賓館とも言える「鴻臚(こうろ)館」で大陸からの客をもてなす一方、心臓部の政庁は内陸部の大宰府に置き、守りを固めていた。鎌倉時代には、政庁は衰退したが、実質的に幕府の支配下にあった。 その大宰府に元軍は迫って来たというのだ。結末はどうであったのか。この史料には「異賊敗北」と記されており、日本軍が元軍を退けたようである。政庁の防壁とも言える土塁の水城(みずき)(※2)が「高い土手になっており、幕府軍は守りやすかったのではないか」と、服部氏は話す。 元軍は最新の武器を使い、日本側は相当苦戦したとみられるが、「幕府は九州全体の御家人を動員していたため、兵数は元を大きく上回った」。また、10月末という日本海が荒れる季節も相まって、元軍は高麗から物資補給を受けるのが困難だったとしている。 服部説によれば、元軍は1日で退却したのではなく、大宰府政庁に向けて内陸部まで侵入したが、攻めきれず、退却したということになる。「元はこの兵数では勝てないことが分かり、結果として“偵察”になったのではないか」と同氏は言う。