戦争伝える「デジタルアーカイブ」の可能性 太平洋戦争開戦78年、体験者減る中での模索
このニュースでは、捕虜を適切に扱っているというナレーションがついている。しかし、ウェーク島からの移送の船の中では捕虜の殺害事件が起きていた。さらに、1943年10月ウェーク島では島に残されたおよそ100人の米軍捕虜が日本軍に虐殺される事件が起き、責任者が戦後処刑されている。当時の報じられ方と、実態の乖離(かいり)が浮き彫りとなっている。
上海の捕虜収容所に収容されたカニンガム中佐はこの翌月脱走を図り、上海市内で捕捉されている。
「捕虜になってはならない」 住民の集団死
太平洋戦争では、サイパン、テニアンと言ったマリアナ諸島、そして沖縄で住民が激しい戦闘に巻き込まれた。日本軍の部隊は降伏せず玉砕するまで戦った。そのため、住民が戦場の中を逃げ惑うことになり、砲弾や銃撃で命を奪われ、追いつめられると捕われることを拒否して集団死に及んだ人も少なくない。 なぜ、こんなことになったのだろうか。 住民らは、捕虜になったら残虐に殺される、特に女性は性的な暴行を受けるという脅迫観念を持っていた人が多かった。その結果、自ら死ぬことを選ぶ、あるいはなぶり殺しにされるくらいなら、自らの手で子や父母、兄弟を死なせたほうがよいと思ったのだ。 テニアン島に米軍が上陸した後、当時18歳の二瓶寅吉さんは、家族と一緒に逃げ惑い、追いつめられたところで母と9歳の妹に頼まれ、2人に銃を向けた。
なぜ、市民までもが捕虜になることを忌避したのか。実は、「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」の一節を含む「戦陣訓」は、民間の出版社から競うように解説本が出版されており、その意識は軍人だけでなく市民にも浸透していた。以下の写真はそのごく一部。子ども向けの本も数多く出されている。
捕虜への忌避感がもたらしたおびただしい死者
デジタルアーカイブを「捕虜」の視点から見ていくと以下のことが見えてきた。 まず、軍内部で捕虜になることを厳しく禁じていたことは明らかだ。捕虜になることは「恥」とされ、捕虜になれば故郷の家族の迫害につながるという感覚が将兵の心に浸透していた。そのため、負けることが分かっていても、最後の一兵まで戦い抜くという「玉砕」が繰り返されたのだ。 同時に、敵国軍の捕虜の扱いも過酷になった。実際、戦後にBC級戦犯として処刑されたり処罰されたりした将兵の多くは捕虜虐待に関わった者であった。 一般市民の間でも、捕虜となることはタブー視されていた。住民を巻き込んだ戦場となったサイパンやテニアン、沖縄では住民も捕虜になることを恐れたため、多くの集団死が発生した。 戦死者がおびただしい数になったことの大きな原因の一つがこの「捕虜になることのタブー・忌避感」にあったことが、このデジタルアーカイブのコンテンツから浮き彫りとなった。
デジタルによる語り継ぎ
筆者は、戦争体験者がいなくなることで、戦場で起きた具体的な出来事などの記憶が失われていくことはなんとか防がねばならない、と考える。あの戦争とは一体なんだったのか、戦争がいかに将兵から市民までもすり潰すように命を奪ったのか、生き残った人の心にどのような深い傷を残したのかを語り継ぎ未来へ伝えていく、そのことが平和のかけがえのなさを確認するのに欠かせないはずだ。 戦争体験のディテールをどう未来につなぐのか。デジタルアーカイブの仕組みが解決策の一つとなりえるのではないだろうか。 (立教大学大学院教授、デジタルアーカイブ学会理事・宮本聖二)