戦争伝える「デジタルアーカイブ」の可能性 太平洋戦争開戦78年、体験者減る中での模索
「捕虜」を例に検証
デジタルアーカイブで歴史と向き合うと何が見えてくるのだろうか。戦争の記憶の風化を食い止める役割を果たせるのだろうか。 まず、自らが捕虜になった人の証言を聞いてみる。ソロモン諸島・ガダルカナル島を巡って争われたガダルカナルの戦い(1942年8月~)に兵士として参加した原田昌司さんは、負傷して意識不明に陥って米軍に囚われた。 以下は原田さんが語った証言の一節だ。
寝たきりの状態で捕われ収容所に入った原田さんは捕虜になった以上、もはや日本に生きて帰れないと考え、殺してほしいと思ったと話している。また、「戦陣訓」に言及している。「戦陣訓」とは何だったのだろうか。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
「戦陣訓」は日中戦争(1937年~)での軍紀の乱れから、東条英機陸軍大臣名で出された「陸軍の将兵が守るべきとされた行動規範」である。太平洋戦争の始まる年、1941年1月に告示された。この「戦陣訓」の中に、「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず、死して罪科の汚名を残す事なかれ」という一節がある。この前には、「恥を知るものは強し。常に郷党家門(きょうとうかもん。親族のこと)の面目を思い」という文言もある。 つまり「捕虜は罪」である。さらに「出身の地域や家族の面目」に関わる、ということをうたっているものである。この「戦陣訓」に従えば原田さんはもはや日本にも故郷にも帰れない。それならば殺されたい、と思ったわけだ。この戦陣訓を東条自身が語っている音声データも戦争証言アーカイブスにある。
原田さんと同じくガダルカナル島で戦った旭知輝さんは、動けなくなり連れて行けなくなった同僚兵士に自爆用の手りゅう弾を渡したことを証言している。
ここでも、「死ぬことは名誉であり生きて捕われることは不名誉なことである」という考えが根付いていたことがわかる。連れて行けない負傷者に自決を強要していたこともだ。捕虜になることで自軍の事情が米軍側に漏れないようにということも負傷者を死なせる事由になっている。 アーカイブに証言が残っている将兵の多くが、「捕虜になるくらいなら自決せよ」と徹底的に教え込まれた、と証言している。しかし実際に捕虜になってみると、食べ物や飲み物を与えられ、けがをした人は治療を受けたなど、待遇の良さに驚いたと語る人が少なくない。同一サイト内に数多くの証言コンテンツを掲載できる一覧性を長所とするデジタルアーカイブの仕組みだからこそ見えてくる傾向だ。