スポーツカーの原点「メルセデス・ベンツ SL」70年の輝かしい歴史
発売時の価格は同世代のメルセデス・ベンツの代表的中型セダン180の約3倍に相当する2万9000マルクと非常に高価であったが、当時の性能面や装備からすれば、妥当な価格であると言える。一方、コンパクトで価格的にも手頃な190SLロードスター/W121は1万6500マルクで、デートカーとして最適だった。
ちなみに、当時のダイムラー・ベンツ社の経営委員会会長であるヴィルヘルム・ハスペルは、当時世界最大の自動車市場を擁する米国が世界輸出を成功させるための重要なキーであると認識していた。メルセデス・ベンツの北米への輸出は、すでに1952年に具体化していた。決定的な役割を果たしたのは、先述のマクシミリアン・エドウィン・ホフマンで1952年7月に当時のダイムラー・ベンツ社は米国東部の総代理店として彼と契約を締結していた。当初は市販予定の無かった300SLだが、その人気に目をつけた彼は市販化を提案し実に1000台もの発注を入れたのだった。
メルセデス・ベンツはホフマンの先見の明のある意見を歓迎し、それが「SL」の伝説に大きく貢献することとなる。1954年に発表された2台のスポーツカーは現在のメルセデスAMG SL/R232にまで続く独特の伝統の始まりとなるのである。「SL」の量産化を提案したホフマンの影響力は「メルセデス」の名付け親、オーストリア・ハンガリー帝国の領事でセールスマンのパイオニアでもあるエミール・イエリネックの影響力に匹敵する。エミール・イエリネックの話は「モーターレースを語らずにメルセデス・ベンツの歴史を語ることは不可能!(前編)」をお読みいただければと思うが、メルセデスと名付けられた最初の車、1901年の「メルセデス35PS」の設計に貴重なアドバイスをした人物である。また、米国での礎を築いた人物にはドイツの盟友スタンウェイ&サンズ(米国の有名なピアノメーカー)も外せない。4男のスタンウェイは1888年米国のニューヨーク州にダイムラー・エンジン会社を設立し、ライセンス生産した。「スタインウェイとメルセデスの深い絆」も合わせてお読みください。