日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」
「純粋経験」の正体
西田幾多郎の「純粋経験」についての理解は言葉の問題にも深く関わっている。そこで見たように、西田は、真の意味で「ある」と言えるものは何かという問いに対して、「純粋経験」こそそれであるという答を示した。そしてこの「純粋経験」、つまり「真に経験其儘の状態」について、一方では、何かを見る「私」、何かを聞く「私」と、見たり聞いたりする「対象」とが区別される以前の「色を見、音を聞く刹那」であると説明するとともに、他方、「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」とも説明している。 判断とは、ほんとうであるかそうでないか、つまり真偽が問題になる事柄、たとえば「この花の名前は何か」とか、「明日の日の出は何時か」といった問題について、ある定まった考えを示すことを指す。その判断は通常、「この花はヒマワリである」といったように命題の形で言い表される(「命題」というのは、判断の内容を、「AはBである」というように言葉で言い表したものを指す)。 それに対して、いま引用した文章では、「純粋経験」はそのような判断がなされる以前の状態である、と言われている。たとえば「この花はヒマワリである」とか「この花の色は黄色い」といった仕方で判断がなされ、言葉で言い表される以前の事実それ自体が「純粋経験」なのである。 さらに連載記事〈あまりに難しくて多くの人が挫折した…日本人が書いた初めての哲学書「善の研究」が生まれた「驚きの背景」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田正勝