渡邉恒雄さん死去 球界の「独裁者」と言われた巨人軍最高顧問は元々野球のポジションもよくわかっていなかった
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄さんが19日、肺炎のため都内の病院で死去した。98歳。渡邉さんがプロ野球界に及ぼした影響は計り知れない。 【写真】渡辺恒雄さんと長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督のツーショット 1996年に巨人のオーナーに就任すると、FA制度ドラフトでの逆指名制度(現在は廃止)などの導入を推し進めた。2004年に球団内の不祥事の責任を取って辞任したが、その後も巨人の取締役会長、最高顧問を歴任し、球界に影響力を持ち続けた。11年には当時の清武英利球団代表と巨人のコーチ人事を巡って対立。「不当な鶴の一声で巨人軍やプロ野球を私物化するような行為」と渡邉さんのコンプライアンス違反を訴えた清武氏を解任し、訴訟に発展した。 ■「たかが選手」発言がストライキに発展 「独裁者」と揶揄された象徴的な出来事が、04年6月に表面化した球界再編問題だった。渡邉さんらNPBのオーナー陣は10球団による1リーグ制への再編を進めようとして、2リーグ制の存続を主張する日本プロ野球選手会と対立。当時の古田敦也選手会長がオーナーらとの直接会談を希望していると聞いた渡邉さんは、「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかん。たかが選手が」と発言。付け加えるように「たかが選手だって、立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話す協約上の根拠は一つもない」と言ったが、「たかが選手」という発言がクローズアップされて世論の大きな反発を招いた。選手会は世論の支持をバックに9月に史上初のストライキを実施。最終的に楽天が新規参入したことにより12球団の2リーグ制が維持された。 「取材を介してのやり取りで行き違いがあったようです。古田さんはナベツネさんに会いたいと自ら発言したわけではない。ナベツネさんは『何も話したくない』とあの騒動の後は珍しく言葉少なでしたね」(渡邉さんを取材したスポーツ紙記者)
■巨人監督に星野仙一氏の招聘を画策 渡邉さんは、当時絶大な人気を誇り、莫大なテレビ放映権料を握っていた巨人に他球団が追従することで、1リーグ制が成功する青写真を描いていた。だが、12球団を維持したプロ野球は違った形で息を吹き返す。北海道に日本ハム、福岡にソフトバンク、仙台に楽天と全国の地方都市に球団が根付き、集客に苦戦していたパ・リーグはセ・リーグに負けない盛り上がりを見せ始めた。各球団が経営努力を重ね、今年も観客動員記録を塗り替えた。新たに導入された交流戦、ポストシーズンも魅力的なコンテンツになり、侍ジャパンの熱戦に野球ファンは夢中になった。 スポーツ紙デスクは、「渡邉さんの考え方が時代遅れだった、という意見を否定はしません。ただ、決して感情だけで物事を決めず、固定観念にとらわれない柔軟な発想を持っていました。中日、阪神とライバル球団の監督として対峙してきた星野仙一氏を05年オフに巨人の監督に招聘しようと画策したのは衝撃でした。巨人の監督は生え抜き以外が就任したケースが過去にありません。結局、『巨人・星野監督』は実現しませんでしたが、チームを良い方向に導くために慣例に捉われない決断力は凄いなと。戦力が均衡化している現代野球では不可能に近いですが、ナベツネさんは巨人の10連覇を最後まで本気で目指していたと思います」と語る。 渡邉さんは結果を残さなかった選手に、歯に着せぬ辛辣なコメントをすることでも知られた。巨人の番記者が振り返る。 「試合に負けたことより、ナベツネさんのコメントがスポーツ紙の1面になっていましたからね。名指しで批判された選手たちは『ああ、また言ってるよ』という感じでした。首脳陣のほうが大変だったと思いますよ。良くも悪くもあれだけ発言が大きく取り上げられる人はもう出てこないでしょう」 今年はシーズン開幕前に行われる恒例の激励会に、車いすに乗って登壇。阿部慎之助監督や選手たちにげきを飛ばした。4年ぶりのV奪回を飾り、10月に「セ・リーグ優勝祝賀会」が都内のホテルで開かれた際には、体調不良のため欠席。山口寿一オーナーが渡邉さんのメッセージを代弁し、「きょうは会場の皆さんと一緒に喜び合いたかったが、体調が整わず、残念ですが欠席します。巨人軍日本一の祝賀会で皆さまにお会いできますよう、監督選手諸君、もうひとがんばりよろしくお願いします」とエールを送っていた。