人生が「うまくいく人」と「失敗する人」の「意外な違い」
わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。 経営とはなんだろう。 『世界は経営でできている』では、「本来の経営は『価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること』だ」と定義する。 さらに、「この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ」とすべての人が「経営の現場」を持っていることを強調している。 例えば、次のようなシチュエーションが挙げられている。 〈どこかから派遣されてきた役員が「競争意識が足りない。今度からは毎月の報告会で営業成績が平均未満の人間はクビだ」と宣言した状況だ。 すでに大笑いされている方は鋭い。 この発言は論理的に根本から間違っている。しかし、こんな馬鹿なことを本気でやる会社がある。恐ろしいことにむしろ多数派でさえある。 個人の成績に正規分布に従うばらつき(分散)がある二人以上の集団において平均を計算すれば、「集団の半分近く」は基本的に「平均未満の成績」になる。 だから、この集団は放っておけば一ヵ月で半分、二ヵ月経てば四分の一、三ヵ月すれば当初の八分の一になり、これを繰り返せば逆・幾何級数的にあっという間に営業部隊は一人になる。 この状況に至って「やれやれ、ようやく営業成績が平均未満の従業員はいなくなった」と、この役員は安心するのだろうか(実際は新人を補充するため実態が見えなくなる)。 働く側も馬鹿ではない。会社が消えてしまう前に、「裏で手を組んで全員が同じ営業成績になるように数字を操作する」という別解に辿り着く。昭和世代はこれを「鉛筆舐め舐め」と表現した。もし会社にある古い鉛筆を嗅いでみて変な臭いがしたら、それは不条理と戦ってきた先人の汗と涙と主に唾の結晶なのである。 この役員は「真に競争すべきは社内の従業員同士ではなく社外のライバル会社だ」ということに気付くべきだ。たとえ社内の従業員の営業成績にばらつきがあっても、ライバル会社より優れていて顧客が満足しているなら問題ないはずである。 もちろん進歩する気持ちを失ってはいけない。だとしても、取り組むべきは平均「未満」の営業成績の従業員を解雇することではなく、平均「以上」の営業成績を上げた従業員の営業ノウハウを分析して他の従業員と共有することだ。 すこし立ち止まって論理的に考えれば誰でも分かる。 だが、ありふれた日常における経営は間違った観念で支配されたまま、他者との関わりに苦痛と不幸をもたらし続けている。〉(『世界は経営でできている』より) 『世界は経営でできている』の主張は3つだ。 ・本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない。 ・誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされ続けている。 ・誰もが本来の経営概念に立ち返らないと個人も社会も豊かになれない。 ただし、現代において「経営」という概念が誤解されているとも語る。 〈経営を「企業のお金儲け」と同一視する「二重の間違い」も蔓延している。 経営するのは企業だけだと思い込むのは無知と傲慢のなせる業だ。学校経営、病院経営、家庭経営……はどこに消えたのか。むしろ世の中に経営が不足していることこそが問題なのである。現代の学校や病院や家庭が不合理の塊なのは誰もが知っていることではないか。 また人類のさまざまな側面に関わる広義の経営において、利益・利潤や個人の効用増大が究極の目的になりえないのも明らかだ。比較的それらを重視する企業経営においてさえ、本来それらは二次的な目的にしかなりえない。〉(『世界は経営でできている』より) 経営概念を新たにインストールし、人生を経営する視点を身につけ、価値の奪い合いから創り合いへとシフトしていきたい。 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
現代新書編集部