山陽新幹線がもたらした2つの奇跡…「明太子」と「戦後の貧乏球団」の知られざる物語 全線開業からまもなく50年
県外のビジネスマン達によって“博多の幻の美味”に!
完成した明太子は、博多の中洲の料理屋が酒のつまみとして出していたのをきっかけにじわじわと人気が広がり、あまりの美味しさにお土産にしたいという声も増えてきました。 しかし...ふくやの明太子は博多での製造・販売をモットーとしており、新幹線もない時代に気軽に買えるものではありません。そこで、どうしても食べたい人は、現金書留で「このお金で買ってださい」と手紙を送ってくるという、まさかの行動に出たのです。 他にも、大阪の高級キャバレーからお歳暮用に1箱1万円の明太子を300個も注文が来るなど驚きのエピソードが。それほど、当時の大阪人にとって明太子は憧れの存在だったのです!
俊夫の驚くべき行動により明太子の運命が変わる
その後1975年、とうとう山陽新幹線が博多まで開通しました。全国の会社の支店が多い博多は、新幹線のおかげで日帰り出張ができるようになり、賞味期限の短い明太子もお土産にしやすくなったのです。 さらに博多の街を盛り上げたいという気持ちが強かった俊夫は、明太子は誰が作ってもいいと、10年かけて作った製造法を秘密にすることなく広めていきました。 こうして50年、明太子は博多の土産物として定着し、山陽新幹線によって全国に運ばれています。
「ミスター赤ヘル」激白!リーグ初優勝に影響したのは…
続いてのテーマは「広島カープ優勝」。当時「セ・リーグの大荷物」とも呼ばれたチームが1975年にリーグ優勝を果たしたのです。 「新幹線の影響が少なからずあった」と語るのは、「ミスター赤ヘル」の愛称で知られる山本浩二さん。現役時代は広島カープで活躍し、WBC日本代表監督も務めた球界のレジェンドが、山陽新幹線がもたらした大逆転劇について語ります!
広島に希望を与えるべく設立された市民球団
広島カープが設立されたのは1949(昭和24)年。鉄道企業を親会社に持つ阪神タイガースや、新聞社を親会社に持つ読売ジャイアンツなどとは違い、 特定の親会社を持たず、原爆に打ちひしがれた広島の街に、希望の光を与えることを創設目的とした珍しい球団でした。母体がないために運営資金に乏しく、樽募金を行うなどして、運営を続けていました。山本も子どもの頃に募金をしたことがある一人で、1969年には憧れのカープに入団します。