『遠い空の向こうに』ロケット打ち上げに情熱を注ぐ、青春映画の佳作(後編)
あらすじ⑧
帰郷したホーマーは、町の英雄として祝福される。彼が真っ先に報告に行ったのは、入院中のライリー先生だった。そして、その帰り道でホーマーは炭鉱に寄る。彼は父親に、優勝の報告をし、最後の打ち上げを見に来て欲しいと頼む。だがジョンは、いつものように冷たい態度を見せた。だが悲しげに去って行くホーマーに、ジョンは「ヒーローにあったんだろ。本人と気付かずに」と声を掛ける。ホーマーは「フォン・ブラウン博士は素晴らしい人だけど、僕にとって本当のヒーローじゃない…」と答える。 いよいよ最後、かつ最大のロケットの打ち上げの準備が始まる。名称はこれまでの「オーク」ではなく、「ミス・ライリー号」と改められた。見学には、かつてないほど多くの人が集まっており、ホーマーを振ったドロシーも寄りを戻そうと彼に声を掛けてくる。 だがホーマーは彼女を適当にあしらい、これまで協力してくれたバイコフスキー、ボールデン、ライリー先生、そしてエルシーに感謝の言葉を奉げる。そして最後は、ゆっくり後から姿を見せたジョンに、「どうしても父さんにやって欲しい」と言って、ロケットの発射ボタンを渡す。 ジョンが点火させた「ミス・ライリー号」は、高く高く上昇して行った。その噴煙の軌跡は、町の中心部の商店や、炭鉱、そしてライリー先生の入院している病院の窓からも見えるほどだ。ジョンは、その雄姿を眺めながら、ホーマーの肩をそっと抱く。そしてそのイメージに、スペースシャトルの打ち上げ映像が重なる。 映画の最期には、当時のホームムービー映像(カラーの8mmフィルム)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AB8)が用いられており、主要登場人物の紹介(その後の人生についての説明がされる)や、「オーク」の打ち上げ実験の様子も見られる。
その後のホーマー・ヒッカム・ジュニア
正確には、最後に打ち上げられたロケットは「ミス・ライリー号」ではく、それまでと同様に「オーク」と命名されていた。理由は、この時ライリー先生の容態はやや持ち直しており、打ち上げ見学にも来ていたからだ。実際にライリー先生が亡くなったのは1969年で、まだ31歳だったそうだ。ただ、原作者のホーマー・ヒッカム・ジュニアは、「映画のように『ミス・ライリー号』と命名すべきだった」と述べている。 劇中に登場しているロケットたちは、モデルロケットを実際に飛ばしている。だがラストに登場する、どこまでも上昇して行くシーンは、さすがにILMがVFXで作った映像だ。 その後ホーマーは、バージニア工科大学を卒業後、宇宙関係には進まず、アメリカ陸軍に6年間勤務してベトナム戦争に従軍した。ソ連製ロケット弾の不発弾を見付けた時は、反射的にノズルを調べたそうだ。1970年に名誉除隊した後は、1978年までハンツビルのレッドストーン兵器廠・陸軍航空ミサイル軍でエンジニアとして働いた。ここは、フォン・ブラウン博士がアメリカに来て、最初にロケット研究を始めた組織であるが、彼が博士に会うことはついになかった。 そして、1981年までドイツの第7陸軍訓練司令部で働いた後、1981年にレッドストーン兵器廠内のマーシャル宇宙飛行センターに勤務する。ここは、1970年までフォン・ブラウンが所長を務めていた所で、実際に博士と働いた経験を持つ人々が勤務していた。 彼の主な仕事は、スペースシャトルの科学ペイロードや、船外活動に関する宇宙飛行士の訓練であった。その中には、打ち上げ後半年で故障した太陽観測衛星ソーラー・マックスの修理ミッション、ハッブル宇宙望遠鏡の配備と2回の修理ミッション、毛利衛さんが搭乗したスペースシャトルSTS-47の宇宙実験室Spacelab-J(https://ja.wikipedia.org/wiki/STS-47)などがある。 そして国際宇宙ステーションのトレーニング・マネージャーとなり、各国の宇宙飛行士の訓練を担当する。その中で特に気が合ったのが、日本人の土井隆雄さん(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E9%9A%86%E9%9B%84)だった。ホーマーが1998年にNASAを退職する記念として、土井さんが日本人初の宇宙船外活動を行ったスペースシャトルSTS-87のミッション(https://ja.wikipedia.org/wiki/STS-87)に、全米サイエンス・フェアで貰った優勝メダルと、実際に展示したラバール・ノズルを持って行ってもらったそうだ。