『遠い空の向こうに』ロケット打ち上げに情熱を注ぐ、青春映画の佳作(後編)
サイエンス・フェアとは
この盗難事件は事実だったそうだが、フォン・ブラウンの写真は残されていたらしい。結局、犯人は不明のままだが、誰かがホーマーの受賞を妨害するためにやった可能性はある。とは言え、本来ライバルである他校の出品者たちからも評価は高く、審査当日はロケットの研究テーマが不利にならないように、“日本やヨーロッパの学生運動のような”デモすら行われたそうだ。 またフォン・ブラウンが、この全米サイエンス・フェアに来ており、4人組の研究を高く評価していたのも事実だが、ホーマーには出会っていない。両者のタイミングが合わず、会場内でずっとすれ違いだったそうである。 そもそもサイエンス・フェア(https://en.wikipedia.org/wiki/Science_fair)というのは、1930年代にニューヨーク市で始まった。当初は、単なる展示やデモンストレーションが中心だったが、1939年の「ニューヨーク世界博」(https://en.wikipedia.org/wiki/1939_New_York_World%27s_Fair)をきっかけとして、生徒が科学や工学の進路に進むことを、奨励・支援するための手段として知られるようになった。 そしてサイエンス・フェアが、全米に広まる大きな出来事となったのが、1957年のスプートニク・ショック(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF)である。ソ連に技術で大きな差を付けられたという衝撃から、科学や数学の教育に対する大幅な見直しが求められた。そして国家防衛教育法(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%95%99%E8%82%B2%E6%B3%95)が制定され、生徒全員一律ではなく、優秀な者には特別な教育を行うことが許され、飛び級進学も推奨される。また、大学の奨学金制度も拡充され、プラネタリウムや科学博物館も積極的に作られた。「宇宙時代の人類」をテーマとした、1962年の「シアトル万国博覧会」(https://en.wikipedia.org/wiki/Century_21_Exposition)もその一環で企画されたものだった。