日本の山をフリークライミング。/執筆:服部文祥
こんにちは。登山家の服部文祥です。若い頃は「登山家なんて職業はない」と思っていたので、登山家、と名乗るのはちょっと恥ずかしかったのですが、いいおっさんになって、自分がどういう立場で世界を見ているのか、と考えたとき、何よりもまず登山者として世界を見ていると気がついて、ちゃんと登山家と名乗るようになりました。 サバイバル登山家・服部文祥さんの1ヶ月限定寄稿コラム『TOWN TALK』を読む。 私は食料や燃料を現地調達し、できるだけシンプルな装備で山に登る「サバイバル登山」を主な活動にしています。この登山のスタイル――装備を少なくし、できるだけ自給自足を目指す――は、わざわざ自分に負荷をかけて登っていると思われることもあるようです。 私がサバイバル登山を始めたのはフリークライミングの思想に影響を受けたためです。最近、スポーツクライミングがオリンピック競技になって、広く知れ渡りましたが、スポーツクライミングはフリークライミングのトレーニング方法として考案された人工壁(クライミングボード)から生まれたスポーツで、フリークライミングとはちょっと違います。
そもそも近代登山は、高山に人類は到達できるのかという純粋で科学的な試みとしてヨーロッパで生まれました。19世紀後半のことです。その頃は山頂に到達できるなら、どのような科学技術を持ち込んでも構いませんでした。人類はまだ科学文明をほとんど手にしていなかったからです。当時の登山者は現代からはちょっと考えられないようなつたない装備(当時の最新装備)でアルプスの山々や、ヒマラヤの山々に登りました。そして目に付く大方の山を登ってしまうと、今度は、より難しい切り立った岩壁に挑みはじめました。 岩壁を克服するためにいろいろな工夫が考案されます。最初は細長い丸太を岩稜に担ぎあげ、険しい岩の段差に立てかけ、その丸太を助けに難所を越えていました。丸太が木のクサビや鉄のハーケンに変わり、最終的には岩にドリルで穴をあけ、ボルトを打ち込むという方法にまで発展します(これを人工登攀といいます)。このボルトの誕生で、理論的に登れないところはなくなりました。 ところが、この人工登攀に疑問を持つ人が現れました。理論的にどこでも登れて、作業をすれば誰でも登れるなら、そもそもの岩に登る意味があるかという疑問です。人工登攀では、対象が岩壁でもビルの壁でもやることが同じです。究極的には、山にロープウェイを架ければ、誰でもその山に登れます。でも、ロープウェイで山頂に行って、登山をしたという人はいません。登山とはなにかをよくよく考えると、自分の手足で登ったとき、人はそれを登山といいます。 岩壁を登る登山者(クライマー)も、岩を自分に都合のよいように加工すれば登れるに決まっていると気がつきました。それは自分たちが岩登りに求めていることではない。それではクライマーが岩登りに求めていることは何か。それはあるがままの岩をあるがままの自分で登ることなのではないのか。 岩の突起や割れ目など、自然な形状だけを利用して、自分の手足だけで登ることこそが「登ること」と彼らは考えました。フリークライミングのはじまりです。フリークライミングの「フリー」はフリーハンドのフリー同じで、そのまま訳すなら「素登り」になります。 岩の形状を自分の身体でなんとか利用し、バランスが取れる動きを組み立てながら登る。それは身体全体で考える創造的運動でした。 もし登れなかったら(岩を加工するのではなく)、自分を鍛えて(自分の肉体を高めて)出直す。その姿勢はフェアネスの心地よさに溢れていました。 自然環境は有限なので、岩壁を「加工して」登っていては、いつかあるがままの岩は地球からなくなってしまいます(二番目以降に登る人は原始の岩を登ることができません)。でも、あるがままの岩をあるがままの人間が登るのであれば、岩は永遠にあるがままで、誰もが原始の岩を登ることに挑戦できます。フリークライミングは持続可能な行為でもあるのです。