ガダルカナル島上空で戦死した「零戦隊指揮官」が残した「1枚の写真の謎」
赤道祭
そして5月28日には赤道を通過、艦上で赤道祭が催された。 『六十五期回想録』によると、そのときの模様はつぎのようなものだった。 〈五月二十八日〇九四五(午前9時45分)赤道を通過し、北半球から南半球に入る。船乗りにとって楽しいことの一つは、この赤道通過時の「赤道祭」である。 満面に髯をたらした赤道神が赤鬼、青鬼を従え、高い足駄を履いてマストの上から甲板上に降臨する。艦長は赤道神から恭しく赤道通過のための鍵を受け取って、甲板上につくられた赤道の扉を開く。赤道神になった下士官兵の最先任者である先任衛兵伍長は、日頃は頭の上がらない艦長にこの日ばかりは深々と頭を下げさせて、得意満面である。 伝令の『只今赤道通過』の声を合図に、盛大な赤道祭となる。この日ばかりは無礼講、踊りに唄に浪花節にと、乗組員たちはこれまでひそかに今日のために練習してきた成果を存分に披露する。我々は甲板上のあちらこちらに陣取って、生まれて初めて見る赤道祭の光景に惜しみない拍手を送った。赤道を無事通過し、午後は休業となった。〉 私が解析に長い歳月を要したたった1枚の小さな写真は、この赤道祭で撮られた1枚だった。 赤道祭は、十九世紀初頭の木造帆船の時代に、風が弱くスコールが多いなど航海の難所であった赤道を通過するさいに行われた安全祈願が起源と言われ、やがて初めて赤道を通過する船員の通過儀礼の意味を帯びてきた。そのうち船上で盛大な祭りが行われるようになり、その伝統は現代にもさまざまな形で残っている。 六十五期の航海はさらに続く。パラオでは生のパイナップルの美味さに一同驚いたり、航海中最後の石炭搭載が行われたり、洋上では3日間にわたって定期考査が実施されたり、サイパンでは事前に知らされていなかった敵前上陸訓練が行われたり、そうこうしているうちに、3ヵ月半におよんだ練習航海も終わりに近づく。朝鮮も台湾も当時は日本が統治していて、南洋群島も日本の委任統治領だったので、「遠洋航海」とはいっても訪問した本当の意味での「外国」はシャム王国だけだった。ひと回り逞しくなった候補生たちを乗せて、練習艦隊が横須賀に帰港したのは、6月29日。内地は梅雨の最中で、横須賀軍港は雨に煙っていた。 この遠洋航海に参加した海兵六十五期生187名のうち、58パーセントにあたる108名が、その後、戦争が終わるまでに戦死あるいは殉職している。この写真を遺した宮野善治郎も、昭和18(1943)年6月16日、零戦隊を率いてガダルカナル島上空で米軍戦闘機の大群と戦い、戦死した。宮野は戦死後2階級進級、海軍中佐に任じられた。 改めて赤道祭の写真を見ると、私が1冊の本にまとめた宮野善治郎と、戦争を生き抜き、私の取材に全面的に協力してくれた冨士信夫(のち少佐)らしき顔は判定できたが、その他の顔は残念ながら私には判別がつかなかった。 だが、この1枚の小さな写真のなかにも、86年前の若者たちの思い出が詰まっていることはわかった。86年といえばほぼ3世代分、人がなにかを忘れ去るには十分な時間だが、家に眠っている古ぼけた写真も、目を凝らしてよく見れば、いまを生きる私たちに何かを語りかけてくることがあるかもしれない。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)