ガダルカナル島上空で戦死した「零戦隊指揮官」が残した「1枚の写真の謎」
「練習航海」で各地を巡る
「練習航海」は、その語感から想像されるようなのどかなものでは全くなかった。「総員起し」後の釣床(ハンモック)くくり。新品のハンモックは帆布が固く、それを決められた時間内にギリギリとくくり上げるのは大変な作業である。天測(太陽あるいは星の高度を測定することにより、海上での自分の位置を出す作業)に始まって砲術、航海、水雷、運用術、一通りの実習をこなさなければならない。その忙しさは目が回るほどだった。 練習艦隊は、候補生たちを訓練しながら日本海を北上、朝鮮半島の羅津、青森県大湊を経てこんどは太平洋側を南下、3月31日、横須賀に入港、浮標(ブイ)に繋留した。翌4月1日、第一回の石炭搭載。明治期に建造された「八雲」「磐手」は、重油ではなく石炭を燃やして動く艦である。この石炭搭載が、練習航海で最大の重労働だった。 〈〇七〇〇から一二〇〇まで、途中二回の中休みのほか、全員汗まみれ炭塵まみれになって、各艦に横付けされた石炭船内にうず高く積まれた石炭の山を、艦内の炭庫に移したのである〉 と、『六十五期生回想録』に記されている。 4月4日、宮城(皇居)「千種の間」で天皇に拝謁した六十五期生は、6日、横須賀鎮守府軍楽隊が演奏する「愛国行進曲」に送られて、遠洋航海に向け出港した。途中、佐世保に寄港し、一緒に遠洋航海を行う研究軍医科、薬剤科士官を乗艦させ、まずは日本が租借権をもっていた中国の大連に向かう。 大連では、4月16、17日と半舷(半分)ずつに分かれて日露戦争の戦跡と町を見学し、艦に残った候補生は、詰めかける多くの艦内見学者の案内や接待に多忙な1日を送った。候補生室を開放し、蓄音機で音楽を鳴らし、見学者、特に女学生に対しては、候補生たちが先を争うようにして接待を務めた。 17日、大連駅から20時発の南満州鉄道の汽車に乗り、満州国の首都新京へ。このとき、食堂車に入れ替り立ち替り訪れる候補生たちが、列車に用意されていた飲食物を、翌朝の到着までに全部食べ尽くしてしまったという。新京では満州国皇帝溥儀(ふぎ)に謁見、本式の中華料理の招宴が開かれる。次々と運ばれてくる料理を、最初は皆、欲張って自分の皿にたくさん取っていたが、だんだん満腹になって食べるペースが落ちてくると、なおも出てくる美味しそうな料理に、「最初にセーブしとけばよかったなあ」と、あとで語り合った。宴が終わって奉天見学、20日には大連に戻り、「アットホーム」(艦開放)を行って、在留邦人との最後の交歓ののちに、練習艦隊は次の目的地、日露戦争の激戦地である旅順に向けて出港した。 旅順、青島、上海、台湾、東沙島(東シナ海プラタス島)、を経てバンコクへ。以前のクラスの遠洋航海の行き先は、六十二期はオーストラリア、六十三期はアメリカ、六十四期はヨーロッパだったから、それらに比べるとドサ回りの感は否めない。だがそれでも、候補生たちにとっては行く先々で見るものすべてが珍しかった。もちろんその間、厳しい訓練は休むことなく続けられ、停泊地では石炭搭載の重労働も行わなければならない。海軍は何ごとにも順位をつけるから、学んだことの試験も定期的に実施された。 4月27日から30日にかけて入港した上海で、宮野善治郎は、出征してちょうど上海にいた11歳年上の長兄・真一と再会をしている。このとき兄弟で撮った数枚の写真が残っているが、磐手に面会に来た陸軍上等兵の真一は、海軍少尉候補生の善治郎よりもはるかに威風堂々としていて、長兄の貫禄を感じさせた。 台湾での宴席で、酒の飲みすぎで失態を演じた候補生がいて、候補生全員に禁酒令が出たり、同じく台湾で、もぎたてのバナナの美味さにびっくりしたり、バンコクでもまた、宴席でアルコールをがぶ飲みしてひっくり返るものがいたり、いろんな思い出を残して、練習艦隊は、今度は針路を東にとり、太平洋のパラオ、トラック、サイパンへ。