ガダルカナル島上空で戦死した「零戦隊指揮官」が残した「1枚の写真の謎」
判明した写真の謎
それが最近、ふとしたことから判明したのだ。ヒントは、広島県江田島にあった海軍兵学校(海兵)で宮野善治郎とクラスメートだった人たちが戦後、著した『第六十五期回想録』(私家版)のなかにあった。 この本は、宮野善治郎の伝記を書くさいに熟読したが、本の記述とこの写真が私のなかで一致せず、これまでピンときていなかった。最近になって再読する機会があり、そこで初めて点と点がつながったのだ。 結論から先に言えば、これは海軍兵学校六十五期生が海兵卒業後、練習艦隊の軍艦「八雲」「磐手」に分乗して遠洋航海に出たさい、いまから86年前の昭和13(1938)年5月28日、赤道を通過するとき艦上で行われた「赤道祭」でのひとコマである。宮野が乗艦したのは「磐手」だから、この写真も「磐手」で撮影されたもののはずだ。 以下、『第六十五期回想録』と、私がインタビューした海兵六十五期出身の冨士信夫、萩原一男、本村哲郎各氏らの話をもとに、海兵六十五期生の卒業から遠洋航海までを振り返ってみよう。
遠洋航海へ
兵学校生徒が卒業すると、少尉候補生として「八雲」「磐手」の二隻の練習艦に分乗、内地巡航、遠洋航海を通して「海の男」として鍛え上げられ、さらに海外に見分を広げる慣わしになっていた。候補生の遠洋航海の行き先は、北米、欧州、豪州の常設コースがあったが、昭和13年3月卒業の六十五期生は特別に、南米へ航海するコースが予定されていた。ところが、前年(1937年)に起きた支那事変(日中戦争)の激化で国際情勢が複雑になったことから、南米への航海は取りやめられることになり、期間を短縮してシャム(現在のタイ)方面に行くことになった。未知の南米大陸に期待をふくらませていた六十五期生は、皆がっかりしたという。 卒業式は3月16日である。15日、荷造りのすんだ荷物が、江田内に入った「八雲」「磐手」に積み込まれ、午後には、卒業生と、式に参列するため江田島に来た父兄たちを交えてのお茶の会が、校長官舎の庭園で行われた。 そして卒業式。天皇の御名代、久邇宮朝融王殿下の御召艦「大井」(軽巡洋艦)は16日午前9時40分、江田内に入港、殿下は10時10分、表桟橋に上陸、校長・住山徳太郎中将に先導され、大講堂に入る。まずは式典に先立って、大講堂1階で、卒業生代表、つまり成績トップ(クラスヘッドという)の卜部章二が「戦闘における精神力について所信を述ぶ」と題する御前講演を行った。 卜部による御前講演が終わると、大講堂で卒業式が挙行された。式場の演壇中央には殿下の御座があり、そのすぐ向かって右側に御下賜品卓。後方には供奉(ぐふ)官、海軍大臣代理、校長、副官が立った。校長席には卒業証書の載った机が置かれている。 演壇下には、御座に向かって、卒業生、専修学生、下士官兵、雇庸人、卒業生の父兄が順に並び、その後方に軍楽隊がいる。式場両側には、特別参加の親任官、高等官、兵学校・練習艦隊の職員、高等官夫人、従道小学校(兵学校内に設けられた、教官、職員の子弟のための小学校)の児童、そして新聞記者たちが並んでいる。 11時5分、殿下が御座につき、校長が校長席に立つと、式次第により卒業式が始まった。卒業生代表、専修学生代表が演壇右側の階段から壇上に上り、殿下に一礼ののち校長より卒(修)業証書を授与され、ふたたび殿下に一礼して演壇をおりて席に戻る。証書の授与式はこれで終わりで、引き続き優等卒業者の御下賜品拝受が行われる。軍楽隊が吹奏する「誉れの曲」が流れる中、優等卒業者・卜部章二、渡部俊夫、鯉淵不二夫、新田善三郎の4名は、菊の御紋章の入った恩賜の短剣を拝受した。卒業式はこれで終了、30分足らずの簡素な式だった。 式が終わると、卒業生たちはただちに寝室で、兵学校生徒の礼服から少尉候補生の短ジャケットの軍服に着替えて、殿下を奉送する位置についた。軍服の襟には、それまでの錨のマークに代わって候補生を示す金筋が輝いている。正午、殿下がふたたび御召艦「大井」に乗艦、これで六十五期生卒業の公式行事はすべて終わる。講堂で前途を祝す茶菓の会が催され、そして午後2時半、いよいよ六十五期生が、4年間住み慣れた江田島に別れを告げる時刻が来た。 第一生徒館前から表桟橋に通じる道路の両脇に、見送りに並んだ六十六期生から六十八期生までの在校生と敬礼を交わしながら、兵学校の正門である表桟橋へ。ここで住山校長以下、監事長・角田覚治大佐、生徒隊監事、指導官、教官らに最後の敬礼をした後、表桟橋に横付けしている内火艇に乗艇、帽を振りながら、沖合いに停泊中の「八雲」「磐手」に向かった。「八雲」「磐手」はともに、日露戦争で活躍した常備排水量1万トン近い装甲巡洋艦で、それぞれ完成後38年を経て、旧式艦となったいまは練習艦として使われていた。 候補生たちが乗艦すると、練習艦隊の出港である。練習艦隊の旗艦は「八雲」、司令官は高須四郎少将だった。「八雲」には94名、「磐手」には93名の新候補生が乗り組んだ。宮野善治郎の乗艦は磐手である。 午後4時、候補生たちは艦の思い思いの場所に陣取って、江田島の風景に名残を惜しむ。錨が揚がり、両艦は静かに動き出す。艦の周囲には、事業服に着替えた六十六期生以下の在校生が、総員でカッターを漕ぎ寄せていた。カッターは、しばらく両艦を追って並走してきたが、やがて漕走をやめると、全員が帽子を振って六十五期生を見送った。六十五期生たちも、大きく帽を振ってこれに応えた。「八雲」「磐手」の二隻は、最初の目的地、舞鶴に向けて航海を始めた。静かな春の夕刻であった。