『魔女の宅急便』から『リトル・マーメイド』『水星の魔女』まで──「魔女像」の変遷が映し出すもの
あなたの隣にもいるし、あなた自身かもしれない
魔女を描くこれらの作品は女性差別に口をつぐみながら、表面的な平等を描き、魔女を恐れる。それは再び進展し始めたフェミニズムに対するバックラッシュの一端でもあるのかもしれない。 魔女は規範から外れ、社会の中で自身が望みえないものを希求し、そのために規制された力を用い、「魔女め!」と罵られる。でも私はこれらの作品の魔女を、嫌いにはなれない。 女性に対する侮りが横行する世界の中で魔女として恐れられるのは、本来マイノリティが持つ力を思い出させもする。『マレフィセント』や『アナと雪の女王』で最終的に王権に絆される魔女たちより、スカーレット・ウィッチやアースラのような魔女の方が魅惑的にも思える瞬間がある。 私はむしろ、恐れよ! と言いたいのだ。フェミニズムは社会を変えていくし、セクシュアルマイノリティも社会を変えていく。それはとても大きな力で、同時にその力を持った人たちは『魔女の宅急便』の魔女のように社会に溶け込んでいるし、あなたの隣にもいるし、あなた自身かもしれない。創作が示す魔女への恐れは、そうした存在の力を思い出させる。 ただその喜びは両義的な、あえて引き受けざるをえない喜びでもある。 恐れは、危うい。魔女狩りが示すように恐れと差別は同じコインの裏表であり、組織的な差別は常に恐れとともにあるからだ。 魔女への恐れは資本主義が感じる、女性や、マイノリティたちへの恐れでもある。今の社会は、彼女、彼ら、彼人らを抑圧し続けてきた。魔女は、資本主義に逆らう人々に付与される「魔女」という差別の構造でもあるが、同時にその構造に反差別に契機を見出すような名乗りでもある。 そして抑圧的な立場に立たされる魔女とされたりする人や魔女を名乗る人々にとって、魔女への恐れは力の証明でもあるが、その恐れは差別でもある。魔女はこの二重の恐れによって引き裂かれてきた。現在のメディアでの魔女像の分裂は、この苦しみをあらためて実感させられる。