失われつつある「コモン」とは何なのか。斎藤幸平さんと神宮外苑から考える
医療費や学費の値上げや、図書館の縮小、公園の樹木伐採……。誰もが等しく利用できるはずのサービスやモノ、自然などへのアクセスが難しくなっている。 【画像】神宮外苑再開発に反対を表明している著名人 経済思想家の斎藤幸平さんは、このような公共財を「コモン」と呼び、商品化すれば社会の富が一部の人に独占され、格差を招くと警鐘を鳴らす。 コモンとは何で、どうすれば守れるのか。 自著「コモンの『自治』論」(集英社)で、問題解決の鍵を「自治」とした斎藤さんに、神宮外苑再開発の視点からコモン再生と育成への道を聞いた。
コモンとは何なのか
私がコモンと呼んでいるのは「市場に任せてはいけない、社会で共有すべき富」のことです。 具体的には、水や医療、教育、公園などの公共空間など、あらゆる人が生きていくために必要なものが含まれます。 つまり、人権に限りなく近いような公共財としての社会的インフラですね。それを商品化するようになれば、お金をもっている人だけしかアクセスできなくなる。たとえば欧州では大学教育は公的に支援され、授業料はほぼ無料です。一方アメリカでは、1年間の学費が1000万円を超える大学もあり、教育が「高額な商品」となってしまっています。 当然ながら、富裕層だけが充実した教育を受けることができ、中間層以下の人の教育の機会は奪われ、ますます格差が拡大します。もし学費を支払ったとしても、ローンの返済地獄に苦しむことになります。 日本でも、鉄道や郵政の民営化、種子法の廃止などが進められてきました。 はては、公的に運営されている水道まで民営化する方針を国は打ち出し、各地方自治体のなかで検討が進められている段階です。 世界全体でも、新自由主義の名の下でコモンが商品化され、その結果、医療や公共交通機関へのアクセスなどで格差が広がってしまっています。そしてそのことが、トランプやルペンなどの極右の台頭をもたらしているわけです。
何かがおかしいと気付かせる神宮外苑再開発
コモンの商品化がなぜ進んだかといえば、それが手っ取り早いお金儲けの方法だからです。それまでみんなが共有していたものを企業が独占してしまえば、お金儲けの種にできるからです。 そういう意味で、都知事選でも論争の的になっている神宮外苑の再開発はわかりやすい「コモンの商品化」だと思います。 厳しい建物の高さ制限のあった外苑地区で規制緩和が行われ、200メートル近い高層ビルが2棟、80メートルほどのビルが1棟、計画されています。これだけでも莫大な利益が生まれます。 高さ制限の緩和は東京五輪が契機でしたが、この高さ制限撤廃のために五輪を外苑地区で開催したのではないかと疑いたくなるタイミングです。 高層ビルに囲まれる新しい神宮球場は、ビル風や日陰などの問題で、野球観戦も楽しくなくなるでしょう。また新球場はイチョウ並木ギリギリのところに建設されるため、外壁の杭がイチョウの根を傷つけることになり、樹木の専門家は、イチョウは枯死すると警告しています。 市民が安い値段で利用できていたスポーツ施設は次々取り壊され、高級会員制スポーツクラブができるという話もあります。 こうした問題があったとしても、「資本主義の私的所有の論理が優先だ。所有者が投資をして、土地を自由に使うのは問題ない」と考える人もいるでしょう。 しかし、それは違うのです。もともと明治神宮外苑は、100年前に多くの市民がボランティアで整備のために働いたり、献金・献本をしたりして整えたものです。 そうして出来上がった空間が、戦後に国から明治神宮に格安で払い下げられたわけですが、その際も、誰もが平等に手軽な値段でアクセスできること、民主的に運営されることなどの条件つきでした。つまり「コモン」として管理されることが譲渡の条件だったのです。 それだけではありません。再開発の行われる「外苑地区」の計画地の約4分の1は、文科省の独立行政法人である日本スポーツ振興センターが所有している公有地です。 創設の経緯からも、現状からも、未来に向けた使い方をあらゆるステークホルダーたちがおおいに議論して、自治をすべきエリアといえるでしょう。 にもかかわらず、市民の知らないうちに、行政が規制緩和するという問題も起きました。たとえば神宮外苑の中の「建国記念文庫の森」は、「風致地区」に指定されていた場所でしたが、議会にすらかけずに、風致地区の区分を変更して規制を緩め、高層建築物を建てられるようにしたのです。 何かがおかしいと感じながらも、私たちは長い間、このおかしさを訴えずにきてしまいました。ようやく一部の人たちが立ち上がり、坂本龍一さんやサザンオールスターズの桑田佳祐さん、作家の村上春樹さんなどが声をあげるまでに広がってきたのは、ごく最近のことです。 しかし、資本主義の論理に包摂されていくと、おかしいと気付かないどころか、反対するのが悪いこと、過激な行為であるかのように捉えてしまう。「私有地だから自由だ」「金が必要だ」といった考えが広がれば、問題が起きても声を上げにくい社会になってしまいます。