「光る君へ」の紫式部が暮らした越前国府はどこにあるのか 謎解き発掘プロジェクトに挑む
紫式部が父、藤原為時の越前国司赴任に伴い、京都を離れて暮らした越前国府。その場所を特定しようという発掘プロジェクトが福井県越前市で進んでいる。これまでも推定地はあったが遺構や遺物が発見されておらず、実在を証明する決め手に欠ける状態だった。市の呼びかけに応じた地元の歴史ファンらも加わって作業が続けられているが、すでに平安期の遺構が本格出土しており、発掘成果に期待が高まっている。 【写真】福井県越前市東千福町にある紫式部公園の紫式部像 ■平安期の溝を発見 きっかけは、NHK大河ドラマ「光る君へ」だ。紫式部や越前国府に注目が集まることを見込んだ越前市が、令和5年からの5カ年で発掘を計画し、市民らに参加を呼びかけた。 調査地に選ばれたのは、越前市国府にある本興寺。ここは、紫式部が都に戻る時に白梅を植え、紫式部が亡くなった後、娘が母をしのんで紅梅を植えたと伝えられている。「紫式部ゆかりの紅梅」は現在4代目とされ、昭和につけられた国府という地名も有力地であることを示している。 昨年9~11月に実施された最初の発掘調査では、平安時代前期の幅2メートル50センチ、深さ70センチの大きな溝が見つかった。 越前市ブランド戦略課文化県都推進室の奥谷博之室長は「国府推定地は市街地の中心部にあたるため古代の遺構が見つかるのは珍しい。市内で平安時代の遺構がこれほど明確に出土したのは初めてだ」と強調する。 しかし、平安時代の溝を発見したというだけでは、国府の特定とは言い難い。奥谷室長は「溝の内側に整然と配置された建物跡や、役所や人物名などが書かれた墨書土器や木簡が見つかれば、越前国府と確定できる」と調査の進展を期待する。 今年5月から行われている本年度の調査では、さらに、溝が東西15メートルに及ぶことが分かった。東西の正方位に真っすぐ伸びていること、規模の大きさなどから、国府の中の公的施設を区画した溝の可能性が出てきたという。 ■紫式部の歌でも 国府は、奈良時代から平安時代にかけて、国司が政務を行った都市のこと。現代でいえば、県庁所在地にあたる。越前国の国府は平安時代、越前市の旧武生市街に置かれたというのが定説だ。