【東京23区城跡めぐり】大都会・東京の真ん中に位置する緑の空間 徳川が築いた天下泰平の象徴・江戸城
日本最大の城跡は、日本一の都市東京にあり、多くの建造物は失われてしまったが、それでも三重櫓や城門など数多くの遺構が残っている。 日本には3万とも5万ともいわれる数の城跡があるという。では、東京にある城跡といえば? 真っ先に思い浮かべるのが、皇居こと江戸城跡ではないだろうか。東京の23区の真ん中に位置する日本を代表する城跡のひとつである。 現在の地に初めて城らしきものがつくられたのは、平安末期。江戸重長が武士館を建てたのが江戸城の始まりとされている。その後江戸氏が衰退し、江戸氏の館も荒れ果てたと思われる。康正2年(1456)から翌長禄元年(1457)にかけて太田道灌(おおたどうかん)が江戸館を再建した。太田道灌とその父太田資清は、築城名人として知られ、東京近郊には川越城をはじめ手がけたという伝承を持つ城が点在する。この時造られたとされる建物が江戸時代初期に佐倉城へ移築され銅櫓として明治初年まで存在していた。 道灌が主の上杉定正(さだまさ)に殺されると、城はその後台頭してきた小田原北条氏のものとなった。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、その論功行賞で、徳川家康に関東が与えられる。家康は北条氏の本拠地であった小田原城ではなく、江戸城に入った。これは秀吉の命令ではなく、家康が今後の発展を考えてのことだったということが最近の研究で指摘されるようになった。 しかし、入城直後の徳川家康は、おそらく秀吉の目もあったのだろう、あまり城の改修に力を入れなかった。やっと腰を据えて築城に着手できるようになったのが関ケ原の戦いで勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いてからだ。現在のお茶の水あたりにあった神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て。その結果広大な平地を創り出し城下町をも含む江戸城を整備、のちに世界一の都市となる江戸の町を創り出した。 こうした築城工事には諸大名たちを手伝わせた。これを天下普請ともいう。日本一の規模を誇る江戸城はあまりにも巨大すぎて家康一代では完成しなかった。2代目の秀忠の時代でも工事を続け、さらに3代目家光の時の寛永15年(1638)に寛永度の天守が上がり、ようやく竣工したのである。 30年以上の年月をかけて完成した江戸城だが明暦3年(1657)、その大半が明暦の大火によって焼け落ちてしまった。完成したばかりだというのに、建物などは一から作り直しである。実は江戸城が火災に見舞われたのはこれが最後ではない。この後、延享4年(1747)に二の丸御殿が、安永元年(1772)には、二の丸巽三重櫓、神田門、馬場先門、日比谷門を焼失。さらに天保4(1833)、天保9年(1838)、弘化元年(1844)、嘉永5(1852)、安政6年(1859)にもやはり火事で建物を失っている。火事で焼けるたびに建物を再建しているが、必ずしも以前と同じ姿にするとは限らない。 また、文久3年(1863)に西の丸と本丸御殿が焼けてしまった時に、西の丸御殿は再建されたものの、本丸御殿はついに作り直されなかった。その後慶応3年(1867)に二の丸御殿が全焼し、そのまま明治を迎え、多くの建物が取り壊されてしまったのである。 だからといって、江戸城跡にまったく建物が残っていないわけではない。徳川家康が築城を始めたころに造られたのではないかと考えられている清水門や、明暦の大火後に建てられたとされる富士見櫓などが現存している。三重櫓の富士見櫓は明暦の大火後天守が再建されなかったことから、江戸城を象徴する櫓となった。このほか、地下鉄九段下の駅から武道館へ向かう途中にある門も田安門という江戸城の遺構である。皇居東御苑となっている部分は、原則月曜日と金曜日以外の昼間は見学することができる。戦災で失われてその後復元された大手門から入れば、全国的にも珍しい城の番所が百人番所、同心番所、大番所と3つも見ることができる。このほか、天守台や内部が公開されている富士見多聞櫓などもあり、近世城郭の城見学入門はぴったりの城である。
加唐 亜紀