カタカナ語の壁:川村雄介の飛耳長目
あの時は落胆した。いつもの講義を終えて学生たちと談笑していると、ゼミのインドネシア人留学生が「先生の授業は何を言ってるのか理解できません」と言う。日本人学生たちからは、わかりやすくて面白いと好評だったはずなのに。彼の日本語のレベルは高く、ゼミでも立派なプレゼンを行っている。いったいどうしてなのだろう。当惑する私を前に、中国人留学生たちも頷く。「よく言ってくれた。私たちも困っています」 彼らの不平の理由は意外なところにあった。カタカナである。証券市場の用語にはカタカナが多い。勢い、講義ではオファー、ビッド、イールドカーブ、シンジケーション、カウンターパーティ等が頻出する。日本人はカタカナを日本語で発音するから、そのままでは英米人に通用する発音にならないものが多い。より混乱するのは非日本語、非英語圏の学生たちである。彼らにとって、カタカナは英語でも日本語でもない摩訶不思議な宇宙語だったのだ。 最近は、企業経営の分野でもカタカナが氾濫している。英語には比較的なじみがある私でも辟易する。GX、DX、CXO、DE&I、カーボン・ニュートラル、ヒューマンリソース、ビジョン、バリュー、パーパス、ガバナンス、エンゲージメント等々、今やカタカナなしに日本のビジネス(これもカタカナ)は語れない。 カタカナ表記の表現は昔から少なくはなかったが、最近の状況は尋常ではない。感覚的には、今世紀に入り失われた何年といわれるのに同期して著増した印象がある。 ものすごい早さで変化するこの時代に、外国の単語を十分に咀嚼、解釈して日本語に翻訳する時間などないので、とにかくカタカナの表記でお茶を濁すためなのかもしれない。それに何となく欧米っぽい言葉のほうが先進的でカッコ良く感じるのだろう。その根底には、日本人の潜在意識のなかに、欧米は日本より進化していて優れている、という劣等感が潜んでいるのではないか。 150年ほど前、初代文部大臣の森有礼は、日本語を廃して英語に置き換えようと主張した。日本語には欧米の先進的概念を表現する語彙がなく、近代化のためには英語による国づくりが不可欠だ、としたのである。森から問いかけられた米国言語学会の重鎮でイエール大学のホイットニー教授は「外国語で近代化に成功した国家などまず存在しない。欧州各国の進歩の要は、ローマの公用語であったラテン語を各現地語に翻訳する努力から生まれたのだ」と応じた。