「韓国の東海『併記』の努力、1952年から…日本の誤った主張を正すべき」
[インタビュー]韓日協定文書の分析 ユ・ウィサン|元外交部国際表記名称大使
「韓国が1990年代初めまで『日本海単独表記』に対して異議を申し立てたことがないという日本政府の主張は誤りです。第1次韓日会談が行われた1952年から『東海/日本海併記』の試みはあり、最後の第7次会談のときに出された『韓国と日本との間の漁業問題に関する合意事項』(以下、『合意事項』)では、併記が実現したこともありました」 韓国が国連などの国際舞台で、朝鮮半島と日本列島の間に位置する東海水域の名称を「東海/日本海」と併記する運動を始め、今年で32年になる。韓国の主張は、東海と日本海に含まれる歴史性を相互に尊重し、これを国際的に用いる場合は2つの地名を併記しようというものだ。日本政府はこれに対して、「韓国などが日本海の名称に異議を主張したのは1992年から」だとしたうえで、「それまで韓国が異議を提起したことはなかった」という冷淡な反応を示している。 これは正しい主張なのだろうか。外交部で国際表記名称大使を務めた光云大学のユ・ウィサン兼任教授(66)は、「韓日会談の文書を細かく分析してみると、『日本海表記』に対する韓国政府の問題提起がなされたのは、第1次韓日会談が始まった1952年」だとして、「1992年に突然併記の要求がなされたという日本側の主張は誤ったものであり、撤回されなければならない」と述べた。 2005年に公開された韓日協定文書を分析 韓国、第1次会談で名称研究を提案 第7次会談の合意文書には併記されたことも 「90年代初めまで日本海単独表記に 異議申し立てをしなかったという日本側の主張は誤り」 ユ教授は、26日に釜山(プサン)で開かれた東海研究会の「第30回東海地名と海の名前に関する国際セミナー」で発表した論文『韓日漁業協定の交渉で扱われた東海水域地名表記問題』を通じて、韓国からの初めての異議申し立てがなされたのは、第1次韓日会談の漁業委員会(1952年2月~4月・合計15回開催)だったことを立証してみせた。これを示す韓国側の外交文書によると、イム・チョルホ韓国代表は3月15日の第8次会議で、東海水域の名称について「貴国が日本海と呼ぶ海を韓国では東海と呼んでいるので、この海の名称を研究してみよう」と提案した。日本の外交文書も、ニュアンスは少し違うが、韓国の問題提起があったことを明確に示している。 イム代表は「この漁業委員会の関連事項ではないが、協議したい(問題がある)」として、「日本側の提案にある『東海』という名称は、韓国語では『日本海』を意味する。誤解が発生する恐れがあり不便だ。名称を統一する必要はないか」と述べた。日本側の島代表はこの話を、「東シナ海」(日本は第1次交渉で「東海(日本海)水域」ではなく「東シナ海」を「東海」と表記した)に対する問題提起だと理解し、「研究してみよう」と答えた。しかし、すぐに「イム代表が言っているのは『日本海』(という表現を)を変えてほしい」という意味だと理解した。日本は特別な反応を示さず、韓国は5日後の第9次会議(3月20日)のときから、東海を「東海(日本海)」と併記し始めた。日本側の日本海単独表記を拒否して併記を試みたのだ。しかしその後、この問題は交渉の主要な争点にはならなかった。 併記に関連して重要な動きがなされたのは、最後の第7次会談のときだった。韓日協定の最終妥結を妨げる最後の障害物だった漁業協定に対する意見の違いを狭めるため、韓国と日本は1965年3月24日から詰めの高位実務者会談を始めた。日本が第1~3次会議のときに提出した文書では、東海水域を「日本海」と単独表記していた。しかし、4月1日午後4時から翌日の2日午前6時まで行われた徹夜の交渉後、「重大な変更」がなされた。両国政府が本国に報告した「合意事項」の文案の3カ所に、韓国は「東海(日本海)」、日本は「日本海(東海)」というかたちで併記を試みた。ユ教授は「この徹夜会談を通して、併記しようという韓国の執拗な要求を日本が受け入れたと推定する」と述べた。 翌日3日に両国の交渉代表はこの文書に合意した。その後、韓国は閣僚会議議決、日本は閣議決定を通じて、この文書を承認した。なんと13年8カ月にわたり行われた韓日協定が最終妥結する「決定的な分岐点」となった重要な合意文書で、「東海/日本海併記」がなされたのだ。しかし、最終文章の漁業協定の「付属書」と「合意議事録」には、ふたたび東海(韓国語版)と日本海(日本語版)という単独表記に後退してしまう。ユ教授は「日本の反対で終わり、併記案が後退したとみられる。しかし、両国政府の重要合意文書で併記がなされたという点に注目する必要がある」と述べた。 「来年の韓日国交正常化60年にあわせて 日本との直接交渉で成果を出さなければ」 37年にわたる外交官生活を終え2018年末に退任したユ教授は、韓日協定文書の分析を「一生の課題」と考えている。「2003年1月ごろ、強制動員被害者が韓国政府を相手取り、韓日協定文書の公開を求める行政訴訟を提起しました。ちょうどそのとき、私は外交部の東北アジア第1課長(日本課長)でした」。外交部は韓日間の敏感な交渉内容を公開することは国益の役に立たないと判断した。担当課長だったユ教授は、この訴訟の政府側証人として出廷し、文書公開に「反対」意見を提示した。「当時、法廷で靴を脱いで投げつける方たちもいました。あなたはどこの国の外交官なのかという非難も多く受けました。苦労して下した決定でしたが、国民の考えは違っていたのでしょう」 このような対立の末、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領は2005年1月、韓日協定外交文書を全面公開する決定を下す。「実際に文書が公開されても、これを細かく分析する人は多くありませんでした。私が自らやらねば、と考えました」。ユ教授は3万5000ページに達する韓国の外交文書全体を1枚ずつ読み込み、丁寧に分析した。これをもとに論文を書き、2015年に光云大学で博士号(論文名『韓日請求権協定に対する再評価』)を取得した。現在は東北アジア歴史財団と共同で韓日交渉外交文書を分析する作業を継続している。すでに作業が行われていた予備会談~第3次会談以降の第4次~第7次会談までの文書を分析し、9冊の資料集を出した。 「東海併記運動が始まってから30年以上が経過しました。韓国の併記の主張に対する国際社会の理解が高まるなど、様々な成果がありました。今、成果を出すためには、日本と直接交渉をしなければなりません。今後韓国政府が日本と交渉を始めるときに、私の作業が役立てばと思います。ちょうど来年が韓日国交正常化60年です。この機会をうまく活用しなければなりません」 釜山/キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )