「元号とは」歴博の小倉准教授が解説(全文)これまで元号に使用された漢字は72文字
平成に代わる新元号が1日に発表されるのに合わせ、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の小倉慈司(しげじ)准教授が同日午前、東京の外国特派員協会で記者会見を開き、元号の歴史や意義について解説した。 【動画】「元号とは」歴博准教授が外国特派員協会で会見 ※【**** 00:35:30】などと記した部分は、判別できなかった箇所ですので、ご了承ください。タイムレコードは「「元号とは」歴博准教授が外国特派員協会で会見」に対応しております。 ◇ ◇
元号とは何か
小倉:小倉と申します。よろしくお願いいたします。元号は一般に年号とも呼ばれ、年に付けられた固有の称号のことをいいます。基準となる年に称号を付けて、年を数えるための称号と説明されますが、例えば西暦のことを元号や年号とは言いませんから、改元、年号をあらためることがある場合に元号、年号というのだと考えておきたいと思います。 本来は年号と言っていましたが、元号の元とは初めの意味であり、初めの年を改めることを改元と言ったところから、年号を元号とも呼ぶようになりました。1889年、すいません、こちらの資料、ちょっと間違えていますけれども、1889年制定の明治の皇室典範において元号が使用されてからは、【法制 00:05:40】用語として元号が用いられています。 この元号はもともと古代中国で生まれたものです。王の即位した年を基点として、丸々王何年、というように年を数える方法は広く世界中で行われていますが、紀元前2世紀、前漢の第5代皇帝文帝のときに在位の途中で年の数え方を改めることが行われ、さらに第7代武帝の時代に初めて固有の名称が付けられました。これが元号の誕生ということになります。 これ以来、中国では1912年に中華民国が樹立されて民国紀元が採用されるまで元号制度が続きました。その後、4世紀ごろには高句麗など朝鮮半島の国々でも元号が用いられるようになり、さらに7世紀には古代日本でも元号制度が導入されるようになりました。 日本で最初の元号は645年の大化とされています。『日本書紀』によれば、政変があり女性天皇であった皇極天皇が退位して、弟の孝徳天皇が即位するとともに、大化の元号を立て、さまざまな制度改革が進められたとされています。7世紀にはほかに、白雉、朱鳥という元号が用いられたとされていますが、連続的に用いられたわけではありません。 この大化、白雉、朱鳥という7世紀の元号については、この時期のことを記す『日本書紀』には潤色が多く見られ、また実際に元号が使用されたか確実な例が見いだせないこともあって、存在を疑う説があります。 私としては大化は実在した元号であり、中国の王朝、唐が周辺諸国に圧力をかける中で、日本ではほかの東アジア諸国の動向を参照し、朝鮮半島の新羅にならって元号を導入した可能性があるのではないかと考えています。ただ、日本が大化から白雉に改元した650年に、新羅では唐の圧力を受けて独自の元号使用をやめ、唐の元号を受けれることになりました。そのため日本でも元号の使用を取りやめることになったというのが私の考えです。 その後、676年に朝鮮半島を新羅がほぼ統一し、東アジア情勢が落ち着きを見せる中で、日本は唐に習った法制度、行政制度の整備を進め、701年に大宝という元号を立てました。これ以降、日本では元号が現在まで続けて用いられることになります。