東京9区より広い敷地に、300室を擁する「英国で最も美しい館」を建てて暮らしていた貴族とは? とある公爵家の歴史
チャッツワース・ハウスに造られた巨大温室
さらに公爵家が負債を抱える原因を作ったのが2人の長男で、1811年に家督を継いだ第6代公ウィリアム(1790~1858)だった。彼は生涯独身を貫き、愛人をつくるようなこともなかったが、唯一のめりこんだことがある。それがチャッツワース・ハウスだった。先述の通り、この屋敷が一族の居城となって300年近く経過していたが、6代公はここを自身の趣味によって大改修していく。 特に彼が手間暇をかけたのが庭園であった。そのために雇い入れたジョゼフ・パクストン(1803~1865)という庭師は稀代の芸術家でもあり、公爵は彼に長さ84メートル、幅37メートルの巨大な温室を造らせた。 1843年に屋敷を訪れてこれに大変な感銘を受けたのが、ときのヴィクトリア女王の夫アルバート公であった。この8年後、アルバートはパクストンとともにさらに巨大な温室型の建物をロンドンのハイドパークに建設した。これこそが第1回ロンドン万国博覧会のメイン会場となった「水晶宮(クリスタル・パレス)」であった。総計29万枚以上のガラスを使用した会場は、5カ月で600万人にも達した入場客すべての度肝を抜いたとされる。
岩倉使節団を圧倒した巨大噴水
さらに6代公が贅を尽くしてチャッツワースに造らせたのが巨大噴水だった。女王夫妻が来訪した直後、翌年(1844年)に屋敷を訪れる予定となっていたロシア皇帝ニコライ1世を喜ばすため、高さ90メートルも水が上がる大噴水を設営させたのである。 しかしこうした大事業で、公爵の借財は瞬く間に膨らんだ。1858年に彼が亡くなったとき、デヴォンシャ公爵家には100万ポンド以上もの借金がのしかかっていたとされる。これを請け負わされたのが遠縁にあたり、7代公爵を引き継いだウィリアム(1808~1891)だった。 彼は公爵になるや、イングランド北西部のバロー(=イン=ファーネス)で製鉄業や造船業にも莫大な投資をおこない、1874年にはついに30万ポンドの年収を手にする。3万ポンドの年収があれば大貴族といわれた当時にあって、それは公爵がイギリスで最も富裕な人物と言わしめたほどの莫大な富であった。 ちょうどこの頃チャッツワース・ハウスを訪れた日本人一行がいた。岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団である。1872年10月に同地を訪問した彼らは巨大な屋敷に圧倒されるとともに、大噴水にも仰天した。「此跳上ノ猛ナル、水晶宮ノ跳水モ及ハサル所ナリ」と、使節団の一員だった久米邦武が記している(『特命全権大使 米欧回覧実記』岩波文庫、1978年、314頁)。 しかし1870年代後半には、イギリスをも襲った大不況によって公爵家の年収は再び激減し、1891年の7代公の没時に公爵家の負債はなんと200万ポンドにまで膨れ上がっていた。