東京9区より広い敷地に、300室を擁する「英国で最も美しい館」を建てて暮らしていた貴族とは? とある公爵家の歴史
株式投資で一山当てた8代公
これを引き継いだのが息子のスペンサ・コンプトン(1833~1908)である。父とは異なり、政界で活躍していた8代公爵は32歳で陸軍大臣に抜擢され、41歳の時には自由党庶民院指導者にまでのぼりつめていた。しかし、ときの大政治家ウィリアム・グラッドストンに翻弄され、彼がアイルランドに自治権を与える政策を進めると、これに反対して自由党を飛び出し、自由統一党を結成して、やがて保守党に合流する。1882年に、長弟でアイルランド担当相を務めていたフレデリックがダブリンで民族主義者に暗殺されたことも影響していた。 晩年は、第3代ソールズベリ侯爵の保守党内閣で枢密院議長として政界の重鎮となった8代公は、所領経営の才にも長けていた。公爵はアイルランドに保有していた土地を売却し、その利益を株式市場に投資した。これが大当たりとなって、父が残した200万ポンドもの借金を50万ポンドにまで減らすことに成功する。 8代公は59歳まで結婚することはなかったが、若い頃から恋人はいた。ただし人妻だったのだ。お相手はマンチェスタ公爵夫人ルイーザ。これまた社交界では「公然たる秘密」とされる仲だった。1890年にマンチェスタ公が亡くなり、2年後に未亡人は晴れてデヴォンシャ公爵と結ばれた。彼女は「2重の公爵夫人(double Duchess)」などとも揶揄された。
財団化によって今も健在
残念ながら子宝に恵まれなかった8代公爵のあとは、彼の末弟エドワードの息子であるヴィクター(1868~1938)が9代公として引き継いだ。8代公爵の才覚のおかげで、公爵家は18万6000エーカーにも及ぶ土地を保有していた。9代公は第一次世界大戦(1914~18年)中にカナダ総督に着任し、このとき副官として彼を支えたのが若きハロルド・マクミラン大尉、のちの首相である。彼は総督に気に入られ、やがて彼の娘レディ・ドロシーと結婚する。 第一次大戦後には植民地大臣なども務めた9代公爵であったが、この頃から大土地所有者に対する相続税率が大幅に上昇していく。1938年に彼が亡くなると、公爵家はこれまでのように広大な自宅を維持できなくなった。何しろチャッツワース・ハウスが建つ敷地だけで3万5000エーカー(約140平方キロ)にも及ぶのだ。それは現在の日本にたとえると、東京23区のうち9区(千代田・中央・港・新宿・文京・台東・渋谷・品川・墨田)をあわせた広さ(約133平方キロ)より大きいのである。 1946年から屋敷はチャッツワース財団の管理下に置かれることとなった。そして11代公爵アンドリューの妻デボラ(1920~2014)というこれまた「女傑」を得て、公爵家の財政は再建されることとなる。2014年に彼女が94歳で大往生を遂げたとき、600人以上にも及ぶ召使いや従業員らが公爵夫人の野辺送りに立った。それはいにしえの公爵家の栄光の名残りにも思われた。 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。 協力:新潮社 新潮社 Book Bang編集部 新潮社
新潮社