権藤博は近鉄の投手コーチ時代に監督の仰木彬と対立 「これ以上いたら、選手の信頼をなくし、選手を守れない」と2年で退団した
「下柳(剛)がフォアボール出しても、『いきましょう』って言ったら『いいよ』って言う。だから下柳は私が育てたみたいに言われますけど、じつは根本さんが育てたんです。ノーコンの、どこいくかわからんピッチャーはゲームで使わなかったら育たないですから。そういう点では、GMと兼任していましたけど、私自身、監督としてすごいと思った人のひとりが根本さんですね」 とはいえ、当時のダイエーはチーム力がなく、93年は最下位に終わった。その点では、82年に優勝した中日、89年に優勝した近鉄とは違っていた。退団した権藤は再び解説者となり、3年間、ネット裏から野球を見た後の96年オフ、大矢明彦が監督の横浜から声がかかった。 (文中敬称略) つづく>> 権藤博(ごんどう・ひろし)/1938年12月2日生まれ。佐賀県出身。鳥栖高からブリヂストンタイヤに進み、61年中日に入団。1年目から35勝を挙げ、最多勝、新人王、沢村賞を獲得。翌年も30勝をマークし、2年連続最多勝に輝いた。だが「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれるなど連日の登板により肩を痛め、31歳の若さで現役を引退。73年より中日の投手コーチを務め、リーグ制覇に貢献。その後、近鉄、ダイエーを経て、横浜のコーチに就任。98年に横浜の監督となり、チームを38年ぶりのリーグ制覇、日本一へと導いた。監督退任後の2001年からは、野球解説者として活躍。12年には中日の投手コーチに再び就任。17年にはWBC日本代表のコーチも務めた。
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki