焼けた土塁とがれきが衝撃物語る 大阪・禁野火薬庫跡
焼けた土塁とがれきが衝撃物語る 大阪・禁野火薬庫跡 THE PAGE大阪
大阪府域の戦争遺跡のひとつで、1939年に大爆発事故を起こした枚方市の「禁野(きんや)火薬庫跡」(御殿山南町)の発掘調査に伴う現地説明会がこのほど開かれ、火薬庫が爆発した際の衝撃の激しさを伝える遺構が府民に公開された。火薬庫をガードしていた土塁表面が爆発炎上の影響で黒く炭化し、爆発で砕け散った建材によるがれき層が発見された ── などとする調査員の報告を、参加者が真剣な表情で聞き入っていた。
見上げるほど強固な土塁が出現
禁野火薬庫跡は奈良・平安時代から近代までの遺跡が集積する禁野本町遺跡の一角で、府文化財センターと枚方市教育委員会が今年4月から発掘調査を進めてきた。調査では五号乾燥火薬庫跡と同火薬庫を守る土塁跡の一部が確認された。土塁は危険防止のため、火薬庫ごとに四方を囲むように設置されていたことが、図面などで分かっている。 今回の調査で見つかった五号乾燥火薬庫跡の広さは21・6メートル×7・2メートル。火薬庫の周囲に、幅が底辺で10メートル、最上部で1・8メートルと分厚く、高さが7メートルに達する強固な土塁が張り巡らされていたとみられ、調査では西側と北側の土塁跡がまとまって出土した。土塁は人工的に積み上げられたもので、近づくと見上げるような高さだ。
爆発でコンクリの床が丸ごと吹き飛ぶ
禁野火薬庫は1897年、旧陸軍の弾薬貯蔵施設として開設。1909年、火薬庫が爆発し、建物の大半が倒壊。その後、土地や建物を拡充して大規模な軍事施設に発展していく。最盛期、敷地は700メートル四方の広さだった。しかし、39年3月1日午後2時45分、爆発事故が発生。同7時までに29回もの爆発を繰り返した。旧陸軍の報告書によると、死者94人、負傷者602人におよぶ大事故となった。 発見された土塁の表面が、黒く炭化した層で覆われていた。火薬庫の大爆発により高熱で焼かれたことが原因と考えられる。土塁の一部に砲弾片が突き刺さっていた。 建物のコンクリート床材の巨大な断片が、裏返しに折り重なった状態で出土。爆発で建物が床面とともに丸ごと吹き飛んだ可能性が高い。建物の周囲には石組みの排水溝が巡り、石の溝側の表面が赤く変色し、石組みの一部が曲がっている。大爆発の高熱で石の表面が焼け、爆風で石組み自体がずれたのではないかとみられる。 さらに、れんがや瓦、砲弾の破片などが含まれる炭化物層が発見された。大爆発で大量に発生したがれきの痕跡と考えられる。