なぜ「出世に目がくらんだ裁判官」ばかりが増えるのか?…腐りきった”最高裁人事”の巧妙な「出世レースのカラクリ」
公平とみえて実は「世俗受け路線」の人事
次に、ヒエラルキーの階梯を細かく細かく切り分け、出発点は一応平等にし、根拠のよくわからない小さな差を付けて相互に競わせる。英語でいうところのラットレース、際限のないばかげた出世競争である。第三者からみればまさにいじましい「ネズミの競走、競争」なのだが、当事者は客観的に自分を見詰める眼を完全に失ってしまっているから、そのことには気が付かず、必死に入れ込む。さらに、ある段階で事務総局系(局長、課長経験者)とそれ以外の裁判官との間に歴然とした差を付ける。それも、近年では、純然たるエリート系とともに、お追従で上に取り入ってきたイエスマンをも適宜取り立てることによって、いよいよ微妙に裁判官たちを刺激するようになっている。 このような傾向について、東大、京大等の名門にとらわれない公平な人事だなどと思ったら大間違いである。能力一本ならまだしも、情実まで交えるようになってきたというだけの場合が多いからだ。その象徴的な例が、第23回で詳細に分析した大規模情実人事なのである。なお、そこで関連して論じた奇妙な最高裁判事人事についても、女性最高裁判事の積極的登用といったイメージで一石二鳥の一般受けをもねらっていることに、よくよく注意していただきたい。オバマ大統領が就任後に有権者たちを裏切っていよいよ大企業と政治家の支配を強め、国民の自由制限を継続した例をみるべきなのである(堤未果『アメリカから〈自由〉が消える』扶桑社新書)。黒人だから、女性だから、それだけで、民主的なのだろうといった受け止め方は、決してしてはならない。「愚かな大衆を喜ばせるには俗受け路線に限る」という全世界共通の国民、市民愚弄路線に乗せられてはいないかを、じっくりと考えてみる必要がある。 なお、近年の情実人事的傾向は、若手にも及んでおり、その反面として、非常に能力の高い人が必ずしも認められないという、以前には考えられなかった事態まで生じ始めていた。かつては、少なくとも若手については、おおむね能力主義の公平な人事が行われており、それは、たとえば矢口体制の下でも特に変わりがなかったものなのだが。 『「自分が出世競争の奴隷であることが理解できていない」…日本と海外の裁判官を見比べると分かる「裁判官出世システム」の問題』へ続く 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」「なぜ、日本の政治と制度は、こんなにもひどいままなのか?」「なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から抜け出せないのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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