西洋美術を超克する「もの派」レジェンド 80歳の彫刻家・小清水漸さんがめざす世界 一聞百見
「70年の大阪万博に向けてテクノロジーがもてはやされた時代に、われわれは疑問を感じていました。そうした精神的反発がもの派の原点です。それまでの美術は欧州や米国からやってきた西洋的なものを受け入れるだけのものでした。しかし、われわれは地面を掘るという行為によって、土の物質性を体感し、土くれだけで作品が成立するということを見いだしました。つまり、穴を掘ってみたら、西洋なんかまるで関係なかったというわけです。それは、これまで自分たちが歴史の中で蓄えてきた言葉や感性によって作品を表現することができる、という発見でもありました」
日本的感性を大切にし、あるがままを肯定することによって、彼らは西洋近代美術を超克する道を切り開いたといってもいい。
「当時は、ベトナム戦争への批判や70年安保など、政治の季節でもありました。でも、もしかしたらわれわれには、どこかに政治という世俗のものと美術表現は次元が違うものであると、きっちりと分けようとする意識があったのかもしれません」
■欧州で感じた作家の風土 彫刻科入学、プロの道へ
生まれは、幕末の四賢侯の一人、伊達宗城(むねなり)を輩出した愛媛県の宇和島。中学校ではテニス部に入って白球を追っていた。「部活はバスケかテニスのどっちにしようかと迷ったのですが、中学校の近くに市営テニス場があってボールを打つ音が聞こえてくるものですから。中学校はテニスばかりしていました」
中学3年の夏休み、故郷を離れ、姉と兄が暮らす東京へ。進学先の都立新宿高校で出会った同級生が、後に作曲家となる池辺晋一郎である。「週末になると池辺のところに行って、彼のピアノで歌ばかり歌っていました。カンツォーネや米国のミュージカルソング。でも、音楽は金がかかる。池辺の、週に1回の作曲の個人レッスン料は僕の1カ月の仕送りと同額。それで、美術に行こうと思ったんです。実際、絵を描くのは好きで、学校をサボって家で絵ばかり描いていた時代があったほどなので」