【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 チームメイト・横山忠夫が語る"ミスタープロ野球"<前編>
――長嶋さんを形容する時に「天性の~」という表現がよく使われますが、先天的に備わっているものなのでしょうか。 横山 現役時代から親しくさせてもらったエースの堀内恒夫さんから、いろいろなエピソードを聞いたよ。当時、遠征先では旅館に泊まっていたから、レギュラー選手でもふたり部屋。長嶋さんと堀内さんが同部屋のこともあった。 試合後、堀内さんが食事してから部屋で寝ていると、夜中にバットを振る音が聞こえくる。長嶋さんが素振りしてたんだよ。天才だと言われているけど、見えないところで相当な努力をされていたんだと思う。 ――長嶋さんであれば、いくらでも練習のスペースが確保できたのでは? 横山 長嶋さんが「練習したい」と言えば、みんなが喜んで協力したはずだけど、「これだけやっている」ということをアピールする人ではなかった。おそらく、人から見えないところでやっていたんだろうな。長嶋さんの守備も「これぞ、プロ!」という華やかなものだったけど、練習もしないでああいうことができるはずがない。 ――ピンチの時、捕手や野手がマウンドに集まる場面で、長嶋さんから何かアドバイスはありましたか。 横山 何にも言わない。「しっかり投げろ」とかもない。当時の巨人はコーチ・監督との役割分担がはっきりしていたから、ピッチャーに厳しいことを言うこともなかったよ。長嶋さんも王さんも、自分たちがスーパースターだという素振りはまったく見せなかった。 ――長嶋さんの引退試合となった1974年10月14日、巨人の本拠地である後楽園球場で行われたダブルヘッダーの2試合目。横山さんはリリーフで登板しましたね。 横山 その時にはもう、中日の優勝が決まっていて(巨人は2位)、その試合は大差で勝っていた。俺が長嶋さんの後輩だということを川上哲治監督が考慮してくれたのかどうかはわからないけど、二軍にいた俺を一軍に呼んでくれたんだよ。2試合目は一方的に優勢となって、8回、9回のマウンドを任された。 ――長嶋さんにとって最後の試合ですが、観客は勝敗に関する興味を持っていなかったでしょうね。 横山 正直、投げにくかったよ。長嶋さんがこの試合で終わりということで、球場の雰囲気はそれまでにないものだった。試合後の引退セレモニーをみんなが待っている感じだったから、フォアボールは出せないし、ヒットも打たれたくない。 ――みんなが、早く終わらせてくれと思っているというのがわかるわけですね。 横山 そう、そう。どんどんストライクを取って少しでも早く終わらせたいという一心だったね。中日のバッターが気をつかってく早打ちしてくれたのかわからないけど、3人ずつで終わることができて本当にほっとしたことを覚えているよ。 ――その時、球場の雰囲気は? 横山 もう異常だったよ。「ナガシマ―」って叫ぶ人、号泣している人がいて。長嶋さんが何かのアクションをするたびに、いろいろな人の感情が動くのがよくわかった。その引退試合の写真が残っているけど、スコアボードに横山という名前があるのは名誉なことだよね。監督だった川上さんにも長嶋さんにも感謝しているんだ。 後編に続く。次回の配信は9/14(土)を予定しています。 ■横山忠夫(よこやま・ただお)1950年、北海道生まれ。エースとして網走南ヶ丘高校を甲子園初出場に導いたのち立教大学に進学、その後ドラフト1位で1972年に巨人に入団した。1974年にはイースタンリーグで最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得。第一次長嶋監督時代の1975年には一軍で起用され、堀内恒夫に次ぐ8勝を記録した。1978年にロッテに移籍後同年引退。現在は東京の池袋で「手打ちうどん 立山」を経営している。 取材・文/元永知宏