【連載】トラウマを忘れる方法はあるのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#7 トラウマを理解する
国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第7回はトラウマを抱えてしまった場合、解消できる手立てはあるのか、ご自身の体験とともに三浦さんの見解をお届けします。 【写真】大好きだった愛犬の墓の前に植えた梅花空木の木 本人提供写真 ■#7 トラウマを理解する わたしたちは「恥」とともに生きている。アダムとイヴは禁断の果実を食べてはじめて自分たちが裸であることに気づき、樹の陰に身を隠す。『マダムバタフライ』の「蝶々さん」は愛した男に束の間見た夢を踏みにじられ、名誉のために自刃する。『こゝろ』の「先生」は、自分はそんなに大した人物ではないと述べ、友を自死に至らしめたことの告白文を残して死んでゆく。恥が自らと向き合うなかで生じる概念なのか、それとも世間に対峙する中で生じる概念なのかは、殊更に区別しても仕方がない。いずれにせよ、わたしたちは己を外から見るとき、他者からの視点によって自らの存在を照らし出すからである。 経験的にひとつはっきりしているのは、恥とは怒りであるということだ。それが他者に対する怒りであるとき、人は他者を殺めもしようし、己に対する怒りとなったとき、自ら死を選ぶ人もいるだろう。発作的な怒りには、不当さに対する抗議の意志が付随していることもある。恥を理由に自死を選ぶ人は、世間を拒絶し、友や係累(けいるい)を後ろに振り捨ててゆくのだが、同時に自らの死を受け止める観客として社会を必要ともしているのである。人間が恥の意識に囚われている状態というのは、自己と社会とがそのまま接合してしまうような近すぎる距離感のなせるわざでもあるといえよう。 何が恥を生むかには人類で共通する部分もあるが普遍ではなく、時代や社会背景によって異なる文化や精神形成過程の影響を強く受ける。例えば、明治とともに生きた「先生」にとっては、異性より朋友(ほうゆう)を裏切る方がより深刻だったのだろうし、村の偏見を物ともしなかった蝶々さんが夫と信じた人に裏切られたことを知って自刃したのは、男女を一対一の精神的な結びつきであると見る意識を裡(うち)に育てていたからだろう。恥は人間にとって良きものと背中合わせなので、恥の感情を失うということは理想や文化を失うということでもある。つまり、愛や理想を失って生きるよりは死ぬ方がいいと考える人が沢山いるということだ。そうでなければ、己の存在を抹消したいとまで思うには至らないだろう。 ◆ ――なぜ、死なずに生きてこられたのかと言われたことがある。些か剣呑(けんのん)な言い方だが、わたしが半生で背負ってきた恥は、通常ひとりの人生にのしかかる負荷ではないと思われたのだろう。自伝的エッセイを書き下ろした際にも、年が離れた友人に、頼むから性暴力を受けた過去については公表しないでくれと言われたことを憶えている。あれは内幸町界隈のごはん屋だっただろうか。まだ原稿を読む前だった。書下ろし中の本のことについて話していて、そう、それであのことについても書いたよ、と日本酒の杯を重ねながら言ったのだった。 仮に、それを読んでなお女性に対する尊敬を揺るがせにしない男性がいたとしても、オレたちの同世代の男たちにはまだまだ偏見がある。と、その人は言った。きっと、その本を読んだ後では君の評論や分析を虚心坦懐(きょしんたんかい)に聞けなくなる。だから、頼むからそれについては書かないでくれ。君が中傷を浴びるのをこれ以上観ているのがつらいんだ。 そう思うんだったら思わせておけばいいじゃない。そうした経験を潜り抜けて出来たわたしというものを、友人として一切恥じていないのであれば、つらさを感じることはないでしょう。 心を許した人に対して、わたしは時に子どものようになるところがあるのかもしれない。ふだん苛烈なまでの人間観察を人にぶつけることは稀だから、理解され通じ合えると思えば手加減というものをしなくなる。その後ほどなく外国へ向かう飛行機の中で、友人はわたしが送った原稿を読み、ごめん、自分が間違っていた、ぜひこれを出版してほしいと書いてきたのだった。その後は数えるほどしか会わなかった。互いに忙しさにかまけ、またコロナの流行もあって会うのが難しかったというのもある。そうやって会う機会もないうちに帰らぬ人になってしまった。それでも、友があの本の原稿を読んで恥や怒りを抱かずにいてくれたことが嬉しい。半生を生きてきて色々なことがあったが、目を引くひとつひとつの出来事よりも、そのような魂に触れる人間関係こそがわたしにとって意味を持つものだった。 恥とともに生きるすべは、何よりも怒りを克服することである。レイプは「魂の殺人」であるという表現を近頃よく聞くようになった。裁判官などの第三者に対して、外見に顕れにくい被害を克明に伝えるための言葉としてはおそらく適していようし、被害者自身がそれを言うのは至極正当である。ただ、魂に死刑宣告を下すのは己であって、他者ではない。それこそ、蝶々さんの例で言えば、彼女はピンカートンを愛し信じた自らの魂が死んだので、それを認め肉体もついでに葬り去ったのである。何が主体であり客体であるのかを間違ってはいけない。仮にも、他人が「あなたの魂は一度殺されたと思うのだが」などと言ってはならないのは、そういう理由からだ。 憎しみと暴力、信頼と欲望の狭間に生まれた悲劇について、わたしの経験より深刻に見える事例はほかにいくらでもある。「ロッコとその兄弟」で描かれたごく身近な者による暴力(邦題は「若者のすべて」)、身寄りを失った“未亡人”を街中の人々が虐げる「マレーナ」、塾講師が教え子を搾取しつづけ、ついには正気を失わせる『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』。いずれもどこかに実話があったからこそ描かれた物語だろう。 なぜ死ななかったのかという問いに戻るとすると、命を惜しんだというだけではない。幼い頃から、激しい怒りを鎮める方法をどこかに持っていたからだ。自我が強くあればあるほど、そこから生じる恥の概念に伴う怒りを鎮める方法を身に着けなければ生きてゆかれない。それだから、きっと壊れにくいのだろう。恥という感情と付き合いながらも、それを克服していくことが回復の道だった。 もちろん、一般的に見れば、正当な怒りを周囲に向けて発散することによってトラウマが「治る」人の方が圧倒的に多いのだろうと思う。コンゴ内戦において膨大な性暴力の被害者を無償で治療し続け、ノーベル平和賞を受賞した医師、デニ・ムクウェゲさんという方がいる。彼が来日し、大学で講演してくれた時の話は大変貴重なものだった。その中で、加害者にきちんと裁きを下すことは、被害者にとって自尊感情を取り戻す重要なプロセスに位置づけられると述べておられた。傷ついているのは肉体だけではないからである。卓見だと思う。コンゴの場合は、内戦の武器としてレイプという手段が用いられた事実をきちんと社会的に認知する必要があった。彼女たちは私的な暴力の犠牲者ではない。性被害が軽視され、またそれにまつわるスティグマが存在する人間社会において、ムクウェゲ医師の述べているように、彼女たちを内戦の犠牲者としてカウントすべきだという観点は見落としてはならない。 ただ、性被害といってもその性質は様々であり、その時々で必要な癒しの性質は異なる。だから、報復による失われた正義の回復に思念を注ぐことが長く暗いトンネルの出口であるとは限らない。わたしが折々に感じてきたそういうことを、まるでなぞってくれたかのように感じた映画が数年前に上映された。人間の暴力と恥、赦しをテーマにして深く掘り下げた、イランのアスガー・ファルハディ監督の映画「セールスマン」である。本作は、2017年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、監督も主演女優も、特定国からの入国を停止するトランプ大統領令に抗して授賞式典に出席せず、それも話題となった。 舞台「セールスマンの死」の初日を終え、ひとり先に帰宅した妻は性犯罪に遭う。プライベートな空間であるはずの自宅で恐ろしい目に合った彼女は持ち前の明るさを失い、暗い顔で塞ぎ込み、怯えて生きるようになる。反面、夫は怒りをため込み、妻の気持ちを置き去りにしたまま復讐心を膨れ上がらせていく。他方で罪を犯した老人とその妻も登場するが、その妻は原理原則抜きに夫のしたことを無条件に赦してしまう。急速に発展するテヘランの街を舞台に、こうした二つの夫婦の在り方を描くことで監督は様々なことを同時に表現しようとした。 主演女優を務めたタラネ・アリドゥスティさんとは、来日した際にトークショーで対談させてもらったのだが、そのときに彼女が話した内容が今でも心に残っている。確かにこの映画は現代イラン社会を描いているが、男と女、そして性被害をめぐるテーマをイラン特有の問題として理解すべきではない、とタラネさんは言ったのだった。彼女はドイツで育った時期があるから、西洋の社会のこともよく知っている。そう、確かに彼女は正しかった。これはイラン社会だけの問題ではない。恥の概念は世界中にあり、性暴力に傷ついた人をかえって恥じる文化は国境をまたいで存在する。 ちなみにタラネさんは、スカーフをきちんとしていなかったという理由で若い女性が殺された事件に表立って抗議をしたため、2022年末から翌年の初めにかけて、イランの監獄に収監されていた。イラン社会において自己の存在が持つ意味合いを十分に理解した上で、ふだんは芸術に身を捧げ、政治的には抑制的でありながらいざというときには怯まない。本当に勇気のある女性というのはこういう人であると思う。イランはイランでまた別個の問題を抱えているが、彼女はそこから目を背けてはいない。 作中の夫が、ほんとうに妻のことを思いやって憤っているのであれば、復讐にすべての情熱を傾けることはなかっただろう。美しい大切な妻が暴漢に襲われて、傷ついたのは彼自身だったのである。しかし、その夫の心のありようを断罪することがファルハディ監督の目的ではない。何であるべきか以前の問題として、夫が恥じ、傷つくことで夫婦がすれ違っている姿をしっかりと描ききることが大切なのだ。「分かる」ということは、傷ついた精神に対する癒しとなりうる。分かるというのは受け容れることでは必ずしもなくて、愚かしく美しく複雑である人間存在を理解するということである。そして、本作品は加害者やそれを取り巻く者の心理まで描き、その後の結末を観客に見せることでさらに深みを増している。 わたしはおそらく、なぜ人間が暴力的であるのかをまず理解したかったのだろう。そして、なぜ善と悪を併せ持つのかも。だから、人間の観察に一生をかけているのかもしれない。好きで入っていった自然環境保護の問題から離れて、戦争をアカデミアでの研究テーマに取り上げたのは、ひとつにはそれが影響していると言えなくもないのかもしれない。 ◆ 過去に暴力に直面したことがあるゆえに、わたしは暴力の貌(かお)を少なくとも一部は知っている。だから、他の種類の暴力や支配欲に対しても敏感である。2006年にアカデミー賞を受賞したポール・ハギス監督の「クラッシュ」という映画がある。この作品は大都市ロサンゼルスを舞台にしており、人種間の分断、人間同士の憎しみ、そして危機的状況における人と人との瞬間的な繋がりと共感を描いた映画史に残る傑作だ。この映画を観たとき、暴力的な人間のぶつかり合いの激しさと刹那にほとばしる共感の熱量に当てられて、しばらく席を立てなかった。 それから10年余りの時が経ち、ハギス監督は複数の性的関係強要事件で巨額の賠償命令の判決が下されるなどして映画界での支持を失った。彼は同意があったと主張しているから、それはここに記しておかねばならない。映画の偉大さや、監督の才能、そこにかけられた真摯な思いが存在しなくなるわけでもない。監督が表現したかった刹那的な共感もきっと本物だろう。ただ、逆に暴力的な感情を己のものとして知る人だからこそ、このような映画が撮れたのかもしれない、とそのニュースに接した時に思ったのだった。 自らが直面した暴力に飲み込まれず、それに感情を支配されないためには、暴力行為そのものに焦点を当てるのではなく、それを行う人間に焦点を当てて考える必要がある。そうしてみると攻撃者の姿は案外陳腐である。暴力や支配はセンセーショナルなので、その烈度が人の目を眩ましがちだが、その実は比較的単純な行為だ。烈度を高めることで、相手から短期的に何かを引き出すことはできても、人間の知を高めはしない。痛みや屈辱、従順さという反応をいくら引き出し積み上げたとて、人間は己が知覚できるもの以上のことを把握することはできないからだ。人間を支配することはできても、人間を理解したことにはならない。人体を解剖しても生命の不思議を理解できないのと同じだ。 痛みを悟り、言葉にする。そうした作業を怒りのさなかではなく、あくまでも落ち着いた環境の中で繰り返すことが、総じて人間存在についての理解を深めてくれる。わたしがカウンセラーの助けを得ることもなくどうやって傷を癒してきたかといえば、そういったプロセスだった。 わたしは長らく自分自身の観察者であり、癒し手であった。プロのように、精神事象についての知識や療法についての結論を得ることが目的ではない。目的は知性を失わずに生きることであり、己を盲目にさせる怒りを鎮め、現実世界や肉体という箱に閉じ込められている精神を護り育てることだった。 わたしには他の不安もあったから、おそらくカウンセラーや精神科医に会えば様々な対話ができただろうし、それによって己をより深く知ることもできただろう。ただ、怒りの克服は内面の営みによってできたとしても、痛みの克服は外界と交わらねば果たせない。世界を完全に拒絶するのでない限り、トラウマを抱える人も外界で生きることがどうしても必要な復活のプロセスなのである。その実践においても、わたしは様々なことを見て学んだ。攻撃者はたいてい極端な人間だが、必ずしも世の中は白と黒に分かれるわけではないということ。他者から寄せられる共感の中に潜みこむ欲望や、あるいは痛みについて。 人間の持つ交信手段は多くの場合、自らが発する言葉である。相手に対して想像力を及ぼす過程においても、己が表出する。人の感情や分析は、結局はその人がどういう人間であるかという自己開示を意味するからである。言葉が危険なのはそういうところだ。日々発する言葉、書き留める言葉にさえ、どういう人間であるかという本質が宿る。人々の怒りの言葉の呟きを見れば、その怒りの対象ではなくその人のことが分かるだろう。誰かが他人の痛みに寄り添おうとする時点で、すでに事物はその存在を離れて社会化されている。 ◆ 例えば、他者の痛みに寄せる共感には、時にその人自身の欲望も絡んでいることがある。「あなたの痛みを感じる」――これはビル・クリントンが初めてアメリカ大統領選に挑戦した時に用いた有名な言葉だ。クリントンの場合、はじめ自分の発言を妨害しようとした聴衆に、最低限の礼儀を求めるくだりでこの言葉を使った。無礼な相手に、まず自分から敬意を表する。あなたの痛みは分かります。けれども、と彼は言ったのだった。それが外交手腕に長けたジョージ・H・Wブッシュ副大統領に挑む、小州の知事にすぎない彼の存在を象徴する言葉になった。対立する立場にある人のところにも必ず降りていって話を聞き、下から頼む(=共感)。それによって自らの話を聞かせることができる(=欲望)。これこそが「I feel your pain」のレトリック(rhetoric)であった。 レトリックという語は、言葉を美しく巧みに用いるという意味であり、日本語では「修辞」や「措辞」に当たる。いうなれば、相手の心に自らの意思を届かせる目的に即した表現、ということである。転じて、本音とは異なるうわべだけの言葉、という意にもなる。英語ではあるが、レトリックという語がこの世に存在すること自体が、言葉の限界と可能性をともに象徴していると捉えることもできるだろう。多義的な語が、それだけでは自立的な意味として内包していなかったはずの本音、話者の意図にまで広がった世界の大きさをはからずも示しているからである。 わたしの年代以上の多くの人が覚えているように、クリントン大統領は充実した八年間の任期をモニカ・ルインスキーとのスキャンダルで汚してしまった。妻ヒラリーを伴った会見で嘘をついてしまった過ちもそうなのだが、それだけでなく、暴露されたモニカとのやり取りにおいて、彼のばかばかしいほどの人間臭さが明らかになったからである。 性は、暴力的な関係ではなくとも支配/被支配の欲望を伴う、ということを彼は示した。それは、実は他者の痛みに共感する彼の類まれなる資質とも繋がっている傾向だったのである。ホワイトハウスの一研修生だった若いモニカに彼がしたこと、それ自体を、他人であるわたしはそこまで責めようとは思わないし、クリントンの政治家としての魅力を損なうとも思わない。むしろ、人間とは複雑な存在であるということを、彼を見ると改めて考えさせられるのである。 共感が人間にとって必要な大切な感情であるにもかかわらず、これを語る人がしばしば人間というものの複雑さを露呈してしまうのは、ビル・クリントンに限ったことではない。それを分かっていてもいちいち咎めだてしないのがわたしの性格だ。観察者であることは、裁定者であることとは違う。溢れるような共感を働かせ、怒りに駆られて生きる人は、世の中においてはより魅力的に受け取られても観察者としては不備なのである。そして、実際に観察をしてみると、人間というのは必ずしも善と悪で割り切れない存在だし、時に自分自身が暴力性や怒りを発散しながらそれを燃料に変えて生きる存在でもある。 人間はいつでも生と死の狭間に生きている。トラウマとともに生き、トラウマを飼い馴らすことはまさに人間をより深く知るという作業に他ならない。