ダンス伴奏のジャズバンドが聴くバンドに飛躍 “グッドマンの奇跡”のなぜ
ジャズ評論家の青木和富さんのコラム第6夜をお届けします。良家に生まれ育った白人の少年が黒人音楽に興味を持ち、のめり込んで後には名プロデューサーとなりました。ジャズの発展に貢献した、ジョン・ハモンド・ジュニアの活躍したのは、アメリカが不況から徐々に経済が回復していく時代でした。そんな時、ジャズ界にも大きな変化が訪れます。※【連載】青木和富の「今夜はJAZZになれ!」は、毎週土曜日更新予定です。
大恐慌時代、そのときミュージシャンたちは?
『ひとりぼっちの青春』(1969年)という映画がある。監督シドニー・ポラック、主演ジェーン・フォンダ、マイケル・サラザン。とてもいい映画だが、近年、なかなか観ることができない埋もれた傑作と言われている。時代は大恐慌時代の1932年、アメリカ西海岸のとあるダンス・ホールでマラソン・ダンス大会が開かれる。映画はそれに参加する貧しい人々の話だ。参加者には食事が出される。それも目的だが、優勝すれば大金が手に入る。こうして体力的にも精神的にももがき苦しむ人々を見せることも、この興業の目的で、一見夢を追う人々を応援する感動的な光景だが、実はこれほど悲惨で残酷な現実を描いた映画は滅多にないと思う。 こうした興業は、実際に行われていて、マラソンは1カ月も3カ月も続いたという記録がある。 ジョン・ハモンドがビリー・ホリデイを最初に録音した1933年は、まさにこんな時代だった。1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に始まる大恐慌は、1932~1933年頃に不況のピークを迎え、それから緩やかに回復する。当然、黒人ミュージシャンの暮らしも苦しく、富豪の家に生まれたハモンドは、そうした知り合いのミュージシャンのほとんどに金銭的な援助をしていたと明かしている。才能あるミュージシャンが、そうして精神的にも破たんしていく姿を見ると、何もしないわけにはいかなかったということだ。
ジャズバンドがダンス伴奏から、聴くバンドに昇格 ベニー・グッドマン人気急上昇の理由とは?
ところが、こうした状況が数年後に大逆転する。経済が急速に回復したわけではない。徐々に経済が回復し、少しずつ暮らしに余裕をもたらし、それが新しい何かに向かうエネルギーになったのだろうか? 時代の変わり目は、こんなときに起こる。この大逆転の主人公は、ベニー・グッドマン。当時グッドマンは、自分がリーダーになっていろいろ責任を負ったりするのが苦手で、それほどリーダーにこだわる人ではなかったと言われている。そのグッドマンの人気が、あるとき突然大爆発し、瞬く間に時代のヒーローになったのである。 それは1935年のツアーの出来事で、出発したときは、いつものようにあんまり気が乗らなかったようだ。案の定、行く先々で、契約を途中で切られたり、お笑い芸を強いられたり、屈辱的な旅でもあった。それは送り出したハモンドたちもある程度予想していたことだという。 ところが旅の最後に誰も予想しなかった奇跡がおきたのだ。一行がロサンゼルスのパロマー・ボールルームに登場すると、そこには大観衆が待ち受け、ステージの前に集まっている。何のことかと恐ろしく思っていると、次の瞬間、観衆から、あれをやれ、これをやれとと叫び声があがった。この会場は、『ひとりぼっちの青春』と同じ、大きなダンスホールである。当時のジャズ・バンドは、ダンス・バンドに過ぎなかったが、この瞬間、ダンスの伴奏から、聴くバンドに変わったのだ。 この出来事は、ニュースとして活字や放送で瞬く間に全米に広がり、そして、グッドマンの音楽も全米に鳴り響いた。レコードも飛ぶように売れ、グッドマンは、一気に音楽ヒーローに上り詰めるのである。このパロマー・ボールルームの「事件」はハモンドは立ち会っていない。海外にいたからである。その後、このとき聴衆がグッドマンにリクエストした曲を見て、この事件の謎をこう解いている。 グッドマンは、当時「レッツ・ダンス」というラジオ番組に出ていて、これらは番組後半のショータイムで演奏した曲で、フレッチャー・ヘンダーソンらの斬新なアレンジが受けたのだろう。この部分の放送は、西と東では3時間の時間差があるから、それが西海岸で熱心に聴かれた理由と思う。 こうしてみると、このグッドマンの大ブームは、当時広く普及したラジオ放送が生み出したものと言える。20世紀のポピュラー音楽は、その後、フランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、ザ・ビートルズという具合に、女性ファンが失神騒ぎをおこすようなとんでもないヒーローの隊列が続くが、グッドマンは、こうした流れの最初に登場した人でもあった。当時、ベニー・グッドマンは26歳。そして、その後ろで活躍したハモンドもまだ25歳の若さであった。 (文・青木和富)