絶海の孤島・青ヶ島在住の40歳女性が語る、「日本一人口の少ない村」が約50年も“無人だった”ワケ「島民130人以上が死亡して…」
「還住」と呼ばれ、語り継がれる
しかし、青ヶ島の名主・佐々木次郎太夫が中心となり、帰島事業を進めたときから、少しずつ希望が見え始める。そして1824年、全青ヶ島民の帰島が実現し、天明の大噴火から50年後の1835年には、青ヶ島の再興が宣言された。この一連の出来事は「還住」と呼ばれ、青ヶ島民の間で今も語り継がれている。 「青ヶ島の子どもたちは、学校や習い事で還住の歴史を学びます。例えば、青ヶ島の定番の習い事には、『還住太鼓』というものがあって、『青ヶ島郷土芸能保存会』に所属している島民が、お祭りのときに演奏したり、島の子どもたちに教えたりしてくれています。そこで、『還住太鼓の“還住”とはなにか』を学ぶ子どもたちも多い。 私も子どもの頃、還住太鼓を習っていたんですよ。初めて還住について学んだのはその時だったかもしれません。『無人島になってから50年も経っているのに、一致団結して島を再建させるなんて、この島のご先祖様はすごいな……』と感動したのを覚えています。だって、10歳で避難した人は、還住のときには60歳になっているんですよ。それだけ、自分の生まれ育った島を愛している人たちが多いんだなと思うと、感慨深いものがありますよね。 命がけで島を復興してくれたご先祖様たちがいるから、今の私たちが平和に暮らせているんです。だから、青ヶ島はよく『何もない』『不便』と言われるし、島外からの交通手段が限られていて、買い物をしたり、遊んだりする場所もないけど、私たちにとってはすごく些細なことだと思っています」 佐々木次郎太夫らの尽力によって還住を果たしてから約200年。青ヶ島の島民が先人たちから受け継いでいるのは、歴史や土地だけではない。「ゼロから自分たちでつくる」「みんなで助け合う」といった「還住マインド」も、青ヶ島に住む人たちに脈々と受け継がれているのだ。
受け継がれる「還住マインド」とは?
「例えば、島には小さな商店が1つしかないから、自分で畑を持っている家庭がほとんどです。採れた野菜は自分たちで食べるのはもちろん、ご近所さんにもお裾分けします。 また、青ヶ島の商店では魚が売っていません。そのため魚を手に入れようと思ったら、港で釣りをしたり漁に出たりするのですが、断崖絶壁に囲まれた島の海は荒れやすく、収獲できない日も多いから、島民にとって魚は貴重な食料です。それでも収獲できた日はお裾分けをするのが、青ヶ島では当たり前の光景。 青ヶ島では、今でも物々交換が盛んに行われているのですが、その根幹には、力を合わせて荒れ果てた土地を復興させた『還住マインド』があるんじゃないかな、と思っています」