安定を捨てた男・小林謙太が送った、素晴らしきフットサル人生【 #人生に刻むラストゲーム|Fリーグ】
全日本フットサル選手権大会準々決勝、バサジィ大分対バルドラール浦安。ピッチ上で一進一退の攻防が繰り広げられるなか、大分のベンチに、仲間の戦いを見守る背番号11の姿があった。これが現役生活最後の大会。しかし、怪我の回復が間に合わず、駒沢のピッチに立つことは叶わなかった。それでもその男は最後の最後まで声を枯らし、仲間を鼓舞し続けた。地域リーグ時代からずっとそうしてきたように。小林謙太、九州が生んだいぶし銀ピヴォのキャリアを振り返る。
ボルク北九州加入と運命の出会い
「怪我で始まり怪我に終わるシーズンとなってしまいましたが、たとえピッチに立てなくてもチームのためにやれることをやりきろうと決めてこの選手権に臨みました。今日で引退となりますが、ここまで来られただけでも奇跡だと思っています。後悔はありません」 試合後、小林は目に涙を浮かべながらも、その表情は「よくここまで来た」という充実感に満ちていた。それもそのはず、高校を出て社会人になった頃の小林は、Fリーグどころかまだ競技フットサルと出会ってすらもいなかったのだ。 1994年7月10日、小林は福岡県北九州市に生まれた。物心ついた頃からサッカーを始め、地元・福岡の希望が丘高校サッカー部でプレー。高校卒業後は、水回り住宅総合機器メーカーの大手・TOTO株式会社に入社した。社会人生活の傍(かたわ)ら、趣味としてフットサルをスタート。しかし、少し経つと物足りなさを覚えるようになった。 「まだ若くて動けたので、『もっとちゃんと取り組みたい』という気持ちが強くなって。北九州市で活動している本格的なフットサルチームはないかとネットで検索してみたら、出てきたのがボルク北九州(ボルクバレット北九州の前身)だったんです。九州リーグのチームとも知らず、いきなり行って練習に参加させてもらい、そのまま加入することになりました」 かくして競技フットサルの世界に足を踏み入れることとなった小林。当時社会人3年目、間もなく21歳になろうかという頃だった。 九州リーグでの最初のシーズンが終わりに差し掛かった頃、小林の運命を変える出会いが訪れる。本格的にFリーグ参入を目指すことを決めたボルクに、スペインリーグ1部の強豪・サンティアゴでトップチームのコーチを務めていた馬場源徳氏(現フットサル日本代表コーチ)がやってきたのだ。はじめはコーチとしてチームに合流し、翌2016年から監督に就任することとなった。 馬場源徳といえば、スペイン滞在時にたまたま出会ったフットサルに心酔してそのまま現地に残り、指導者としてスペイン3部、2部、1部と道場破りを繰り返しながらトップリーグに昇り詰めた“狂人”だ(※最大限の敬意を込めてあえてこのように表現)。サンティアゴに挑戦した際も「日本人にやらせる仕事はない」と最初は門前払いを食らったものの、翌日から毎日練習場に出向いてクラブハウスや練習施設の掃除を勝手に行い、その熱意をアピール。しばらく経って、根負けしたクラブ関係者から「もうわかったよ。お前、うちのアカデミーの練習の一部を担当していいぞ」と言われ、チャンスをつかんだのだった。熱意と行動で人生を切り拓き、世界の頂にまで登り詰めた男の指導は強烈だった。 「当時はチーム練習が夜の9時から11時だったのですが、11時に終わることはまずなかったですね。その日馬場さんがテーマとして掲げたことができなければ、とにかく全員でできるまでやる。明け方3:00とか4:00まで練習するのも普通で、そこから家に帰って2、3時間だけ寝て仕事に行く生活でした」 世界のトップを知る馬場監督からすれば、当時選手たちに求めていたのは「Fリーグを目指す上で最低限必要な、実に基礎的なこと(馬場監督)」だった。しかし、それまでとは比べ物にならない高強度・高濃度のトレーニングに、在籍していた選手の多くが音を上げ、クラブを去っていった。だが、そんななかでも小林は辞めなかった。ただ上手くなりたい一心で練習に通い、来る日も来る日も、必死で目の前のトレーニングに食らいついていった。 「あの頃の下積みがなかったら、特別な才能があったわけではない自分がトップリーグでプレーできることはなかったと思います。当時のGMの中村恭輔さんや馬場監督には、本当に感謝してもしきれません」 ボルク北九州は九州リーグで無敵を誇り、チームは着実に力をつけていった。そんな最中、Fリーグが2018-2019シーズンより2部制を導入することを正式決定。ボルク北九州はチーム名を「ボルクバレット北九州」と改め、新設されるFリーグディヴィジョン2・F2へ参入することとなった。