安定を捨てた男・小林謙太が送った、素晴らしきフットサル人生【 #人生に刻むラストゲーム|Fリーグ】
大分で過ごした素晴らしき日々
F1で3シーズン目となった2022-2023シーズン、小林は怪我に苦しんでいた。10月に右膝外側半月板を損傷。5ヶ月に渡るリハビリを経て新シーズンからの復帰を目指していた矢先、クラブから契約満了の通知を受けた。 「正直、ショックでした。怪我の状態が良くなかったのは確かですが、1日でも早く治してピッチに戻ろうとリハビリしていたところだったので。それまでしんどい思いもしながらも、自分なりにボルクのために精いっぱい尽くしてきたつもりでした。だからこそ、すぐには受け止められなかったですね」 話し合いの末、最終的には「残ってもいい」という方向でまとまりかけた。しかし、それまで人生を懸けて貢献してきたクラブからの通知に、気持ちは揺らいでいた。小林の恩人である中村恭輔GMも馬場源徳監督も、もうクラブにはいなかった。 そんな最中、小林の元に一通の獲得オファーが届く。同じ九州のF1クラブ・バサジィ大分からだった。その前のシーズン、一時は降格危機に陥るほどの不振にあえいだ大分が、小林の能力と経験を高く評価したのだ。 「すごく迷いました。でも、まだ怪我が治りきっていなかった自分を信じて評価してくださったことが何より嬉しくて。最後にプロ選手としてプレーしたいという思いもあり、バサジィでお世話になることにしました」 かくして小林は、最初で最後の移籍を決断。北九州では仕事をしながらプレーしていた小林にとって、完全なプロ選手としてプレーするのは初めての経験だった。 小林謙太という男は、練習の虫だ。どんな時も手を抜かず、一回一回のトレーニングを誰よりも大事にしてきた。それがあったからこそ九州リーグから這い上がって来られたわけだが、大分にはその小林も舌を巻くほどの選手が何人もいた。 「仁部屋(和弘)選手をはじめ、上原(拓也)選手、高溝(黎磨)選手など、意識の高い選手ばかりですごく刺激を受けました。素晴らしい選手たちと一緒にプレーできて、最後まで学びながら成長できたと思います」 新天地での日々は、小林にとって充実の時間となった。だが、小林がチームメイトから影響を受けていた一方で、小林のメンタリティもまた、着実にバサジィの力となっていた。北九州で1年、大分で1年共にプレーしたゴレイロの上原拓也は、小林について次のように語る。 「プレーでの貢献はもちろん、ピッチ外での振る舞いも素晴らしい選手でした。僕と同じタイミングで大分に加入しましたが、明るい性格であっという間にチームのムードメーカーになっていましたよ。でもただ明るいだけでなく、時にはチームの雰囲気を整える、引き締める役割も担っていました」(上原拓也) 2023-2024シーズン、大分が試合前のウォーミングアップに入る際の円陣では、小林がチームに言葉を投げ掛けてからアップに入るのがルーティンとなった。怪我の影響でシーズン序盤は別メニューだったにも関わらず、だ。それだけでも、小林が大分でいかに早くチームに溶け込み、影響を与えていたかがわかるだろう。長い時間ピッチに立った試合は多くなかったが、「彼がいなかったら、今シーズンの飛躍も、リーグ終盤の巻き返しもなかった」という上原の言葉が、小林の存在の大きさを表していた。 今季、大分は前年の11位から4位へ躍進。ファイナルシーズンでは目覚ましい一体感を見せ、優勝争いをしていた名古屋オーシャンズ、ペスカドーラ町田を倒すなど、リーグのクライマックスを大いに盛り上げた。小林もその輪の中にいた。キャリアの最後に、確かに足跡を残してみせた。 そして最後の全日本を前に、現役引退を表明。ベスト8で敗れ、フットサルに懸けた男の旅は終わりを告げた。駒沢のピッチに立つことはなかったが、完全燃焼だった。 「最高のフットサル人生でした。ボルクがFリーグへ上がる時に仕事を辞めてフットサルを選んだこと、そのチームでF1に上がれたこと。最後にバサジィへの移籍を決断して、プロの環境でプレーさせてもらえたこと。そしてキャリアを通じて素晴らしいチームメイトたちに出会えたこと。思えばいくつかの分かれ道があったと思いますが、引退を決めたいま振り返ってみても、それぞれの選択に何一つ後悔はありません。この道でチャレンジして本当に良かったと思います。才能があるわけでもない自分がここまで来られたのは、これまで関わってくれた人たちのお陰です。お世話になったすべてのみなさんに、心から感謝したいと思います」 目を真っ赤にしながら話す小林の表情は晴れやかだった。やりきったという思いと共に、「僕は幸せ者です」と何度も繰り返した。九州が生んだいぶし銀ピヴォ・小林謙太。仲間を愛し、仲間に愛され、真っ直ぐに道を切り拓いてきた男が、最高のフットサル人生に別れを告げた。