会議室から始まったコミケ、いかにして「オタクの祝祭」になったか…今明かされる歴史「誰が予想しますか」
世界最大級の同人誌即売会「コミックマーケット」は1975年12月、参加者わずか700人でスタートした。なぜこれほどの成長を遂げたのか。(文化部 石田汗太)
「会議室」から全てが始まった
「会議室一つで始めたものがこうなるなんて、誰が予想しますか」。コミックマーケット準備会初代代表の原田央男(てるお)さん(72)は語る。第1回(C1)の会場は日本消防会館(東京都港区)会議室だった。参加サークル数32、長机14脚をロの字に並べただけの配置。「会議室だから長机しかなかったんですよ」
原田さんは漫画批評集団「迷宮」のメンバーで、亜庭(あにわ)じゅんさん、米沢嘉博さんらと共に同人誌「漫画新批評大系」を創刊した。「出しただけで満足したくなかった。僕らの本を読んでもらうためには、同人誌流通の場を自分たちで作る必要があった。マーケットという名称も自然に出てきました」。この「迷宮」が準備会の母体となった。
漫画雑誌「COM」が71年に休刊したことも大きかった。同誌は全国の漫画同人サークルを組織化しようとしたことで知られる。「COMがなくなったので、自分たちでやるしかなかった。僕はCOMの漫画が好きでした。同人誌即売会を開いたら、まだ見ぬ創作漫画が読めるんじゃないかという期待があった」
予想を超えたのは、女子中高生を中心とした少女漫画ファン、アニメファンが会場に殺到したことだ。萩尾望都さんらによって少女漫画の新しい波が起こり、アニメブームが勃興し始めていた。「創作漫画よりファンクラブ会誌が増えて、参加者数もうなぎ登り。会場をどんどん広くして運営も大変になっていった」。参加者が4000人に達した79年、原田さんは限界を感じて代表を自ら退任。翌年から米沢さんが2代目を継ぐ。
キーマンは「米やん」
コミケは漫画家とファンの交流を図るコンベンション型イベントへの反発から始まった側面がある。来場者を平等な「参加者」と呼び、あらゆる同人誌を受け入れた。それゆえのきしみも生じたが、90年代以後の急拡大は、漫画評論家としても活躍した米沢さんの鷹揚(おうよう)なリーダーシップによるところが大きい。