会議室から始まったコミケ、いかにして「オタクの祝祭」になったか…今明かされる歴史「誰が予想しますか」
「米沢前代表がみんなを引っ張ったという印象はあまりない。準備会はスタッフのボトムアップで動くんです。米沢は『いいよ』と言うのが基本」と、有限会社コミケット広報の里見直紀さん(56)は話す。
拡大し続けるコミケは「オタクの祝祭」となっていく。原田さんによると、コミケを「ハレの日」と最初に呼んだのは米沢さんだった。「僕が代表の頃は『祭りにしない』という暗黙の了解があった。ハレと言い換えたのはいかにも米(よね)やん(米沢さんの愛称)らしいな、と」
米沢さんは2006年、53歳で死去。告別式には1500人が集い、出棺時は盛大な拍手が起こった。米やんがいかに愛されたかを示す光景だった。
3人の共同代表制に移行しても運営に揺らぎはなく、19年末のC97は4日間で75万人という空前の記録を作った。が、年明けにコロナ禍が発生、20年のC98は史上初の中止に。その後3回は入場制限付き開催となり、ほぼ通常開催に戻ったのは23年のC102からだ。1日あたりの参加者数は、コロナ前の約7割まで戻っている。
見本誌は約300万冊に
参加サークルは準備会に新刊の見本誌を1冊提出するのがC1以来の習わしだ。約300万冊の見本誌は、埼玉県内の倉庫に厳重に保存されている。
「若いスタッフに時々、自由に見てもらっています。コミケの歴史を知ってほしいから」。3代目となる市川孝一共同代表(56)は語る。見渡す限りの段ボール箱は、開催回・配置ブロックごとに整理され、図書館のように、目的の同人誌にたどり着けるようになっている。
市川さんらはコミケの理念を少し改定した。〈すべての表現者を受け入れ、継続することを目的とした表現の可能性を拡(ひろ)げる為(ため)の「場」である〉。継続という言葉が新たに強調された。
「『黒子のバスケ』事件がきっかけです。米沢が代表だったら理念の見直しに反対したかもしれない。しかしコミケはこれだけ大きくなったのだから、『我々は何があっても続けていく』という覚悟を示さなきゃならないと思った。あらゆる表現を受け入れることと、場の継続を願うことは矛盾するかもしれない。でも、矛盾だらけなのも同人誌即売会なんですよ」