「最後まで自分を過信できなかった」甲子園で打率4割、大学リーグは5割超で首位打者…大阪桐蔭“最強世代”で春夏連覇の外野手はなぜプロを諦めた?
なぜ青地は野球を「引きずらなかった」のか?
それでも甲子園で優勝することは偉業であり、世間一般でもなかなか経験することはできない。野球をやっていれば誰もが成し得たい目標であり、功績となる。大阪桐蔭という超名門校となればなおさらだろう。だが、それを青地は一切引きずることなく、野球に区切りをつけた。 現状を聞く限り、何もかもをポジティブに受け止めている。 「野球を引きずらずに今の仕事をポジティブに受け入れられているのは、持って生まれた性格なんでしょうね。僕は欲が強いというか、『1番になりたい』とか『負けたくない』という思いが強いんですけど、逆に言うとそれが強すぎて自分の評価が低いんです」 野球をやっている時も、周囲の評価がどれだけ上がろうと、いつも「実力が伴っていない」と思っていた。 「だから鼻が伸びすぎることはなかったと思いますし、その分、周りの意見を吸収できるのかなと。これは自分の性格の良いところでもあり、しんどくなることもある部分なのかなと思います」 プロ野球選手を目指し、何度か勝負しようと思ったことがないわけではない。だが、最後まで自分を過信できなかった。いまも青地は「もし自分で自分を評価できていたとしても、どのみちプロへは行けなかったと思いますよ」と冷静に分析してしまう。 首位打者を獲った3年秋のリーグ戦後には、監督に野球を辞める意思を伝え、すぐに就職活動を開始した。 実はいくつかの社会人野球チームから入社のオファーももらっていた。だが、その前に丸紅から内定が出た。「先に決まったなら、これも縁なのかと思って」と、社会人野球チームには断りの連絡を入れ、会社員としての道を切り開く決意をした。 「野球を続けるのは『プロへ行けるのかどうか』というのが理由のひとつでした。でも、現状では厳しいと思っていた。しかもそれ以上に『海外で活躍する』という心躍るような目標ができた。なら、そちらに向かっていこうと思いました」 自分のレベルを思い知ることができたからこそ野球をきっぱりと諦めることができ、次の世界に思いを馳せることができた。 22年間過ごした関西を離れ、千葉県内にある社宅に入居したのは23年春。電車通勤はすぐに慣れたが、鉄道網が複雑な関東圏での移動は、いつもと違う場所に行こうとすれば「今でも調べながら行くこともあります」と笑う。 ただ、青地が配属されることになった部署では、ちょっとした“有名人”のような反応もあったという。 「配属された部の当時の部長さんがすごく野球が好きな方で、高校時代の自分のことをご存じだったんです。すごくフランクにお話しさせていただきましたし、仕事で悩んだ時に“じゃあ、一杯いくか”と飲みに誘っていただくこともあって、上司の方にはすごく恵まれたと思っています」
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