謎多き女流作家・紫式部の本名や出自は? 生家「藤原家」の系譜と紫式部が憧れ続けた人物
2024年はNHK大河ドラマ『光る君へ』で、『源氏物語』を書き残した紫式部の生涯が描かれます。まさに“紫式部イヤー”となるでしょう。1000年以上の時を超え、紫式部をはじめとする人々がどのような想いを抱き、どのような暮らしをしていたのか……その片鱗を私たちに伝えてくれるのが『紫式部日記』や『紫式部集』です。紫式部がどのような視点で平安の世を見ていたのか、彼女が残した言の葉から紐解いていきましょう。 ■謎に包まれた平安女性の本名や生没年 紫式部は『源氏物語』の作者としてあまりに有名な存在です。テレビのクイズ番組で、「『源氏物語』の作者は誰ですか?」という問題が出たとしたら、誰もがサービス問題だと思うでしょう。 では、「紫式部の本名は何ですか?」というクイズが出たらどう答えますか。藤原香子? よくご存知ですね。この「香子説」は発表当時、一世を風靡した、興味深い説ですが、現在のところ、一仮説という評価が一般的なようです。ですから、わからないと答えるのが穏やかでしょう。そうなると、そもそもクイズとして成立しませんが。 この時代、本名で呼ぶのを忌む習俗があったため、紫式部は宮中で使われた通り名でした。正確に言うと、「藤式部(とうのしきぶ)」というのが正式な女房名、いわばキャリアネームで、紫式部はそこから派生した、あだ名のようなものでした。紫式部のライバルのように扱われる清少納言も、また和泉式部も赤染衛門も、みな宮中で流通した女房名で、本名はわからないのです。なお、大河ドラマでは「まひろ」という名前が付けられているようですが、これはNHKも広報しているように、あくまでもドラマ上の設定です。 さらに紫式部は生まれた年も亡くなった年もよくわかりません。これは清少納言も和泉式部も赤染衛門も同じです。この時代の宮仕え女房たちは中流貴族の娘が多かったのですが、その人生の軌跡は、ほとんど記録としては残っていないのです。 しかし、私たちは紫式部の人生をそのすべてではないにしても、知ることができます。なぜでしょうか。それは『源氏物語』以外に、紫式部は『紫式部日記』と『紫式部集』という作品を残しているからです。 『紫式部日記』は寛弘5年(1008)秋から寛弘7年(1010)正月にかけて、主人である中宮彰子の皇子出産やそれにまつわる儀式、またその時々の思いを記した宮廷記録です。そして『紫式部集』は人生の折に触れて詠んだ歌を集めた家集です。『源氏物語』以外にも、このような作品を紫式部は残し、1000年の時を超えて伝えられてきました。時空を超えて、書き残した文学から、古人のナマの声や思いを知ることができる。これこそが文学の力であり、古典を読む醍醐味です。 本連載では、これら2つの作品を中心に、そこからうかがえる、紫式部の人生と人物像をご紹介していきます。元旦から辛いニュースが続き、胸が痛みますが、しばらく1000年前を生きた先人に思いを馳せつつ、読んでいただければ幸いです。 さて前回の配信は、フジワラがたくさん、という内容でした。以前の大河ドラマ「平清盛」ではモリがたくさんでしたが(これは名前ですが)、それに対して、こちらは藤原氏がたくさんです。紫式部の父方の家系をたどれば、藤原北家という一番栄えた家となります。藤原道長や藤原頼通も同じ北家です。ただ、北家の中でも枝分かれし、紫式部の父の家は良門流といわれ、北家の中でも傍流でした。 紫式部の父親・藤原為時(ためとき)は、地方の国司を歴任する受領層であるとともに、大学寮に学んだ学者でした。優れた文人でしたが、身分は高くなく中流貴族の位置に甘んじていました。しかし、この一族の中で、かつて政権の中枢に躍り出た人物がいました。紫式部の曾祖父にあたる藤原兼輔(かねすけ)です。 大河ドラマ『光る君へ』の初回の放送では、為時が提出した申文(もうしぶみ・叙任や昇任を求める際に思いの丈やその理由を記して訴える文書)の中で、この祖父(為時からすれば祖父になります)に言及していました。気づいた方もいらっしゃるかもしれません。 兼輔は醍醐天皇の時代に中納言に昇りました。醍醐天皇(敦仁親王)は兼輔の父方の従兄弟である藤原高藤の娘胤子(いんし/たねこ)が生んだ皇子でした。この天皇の即位が兼輔の運命を変えました。胤子の弟で、右大臣に昇った定方とともに醍醐天皇の朝政を支えたのです。さらに兼輔の娘桑子(そうし)は醍醐天皇の後宮に入り、章明親王を生んでいます。章明親王は『蜻蛉日記』にも登場し、藤原兼家・道綱母夫婦と風流な和歌を交わしています。 桑子は更衣として入内しています。『源氏物語』の主人公光源氏の母が同じく更衣(桐壺更衣)として入内した設定なのは偶然なのでしょうか。さらに『源氏物語』の本文中にもっとも引用される歌が兼輔の「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(親心というのは闇ではないけれど、子を思う煩悩の闇の中で道に迷い続けるものなのだなあ)です。この歌が娘桑子を思って詠まれた歌であることからも、紫式部の曾祖父への思いの強さが感じられます。 また兼輔は定方とともに、紀貫之や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)などの歌人たちを庇護し、賀茂川の堤にあった兼輔邸は文化的なサロンとなっていました。紀貫之・凡河内躬恒は『古今和歌集』の撰者、紀貫之は『古今和歌集』の仮名序や『土佐日記』の作者としても有名です。このような歌人への後見と併せて、時の天皇に側近として仕えた兼輔は紫式部の誇りとするところだったでしょう。 藤原兼輔の賀茂川沿いの邸宅は子孫に伝領されて、紫式部もそこで育ったとされます(現在の京都市上京区蘆山寺のあたりと考えられています)。紫式部は幼いころから、この家で、一族のキャリアハイだった、曾祖父兼輔の話を父の為時から聞いたのではないでしょうか。いずれにしても、自慢のひいおじいさまだったことは間違いありません。さらに、この家に出入りしていた紀貫之の筆跡などが伝わっていたとしても不思議ではありません。そのような家で育った紫式部が後年、文学史に燦然と輝く物語を書いたのも、何だか歴史の必然のようにも思えてきます。 紫式部の母親(大河ドラマ初回放送のラストは衝撃的でした)や弟についてはまたの機会にお話しするといたしましょう。 参考文献:福家俊幸著『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸