中学の時に突然父を亡くし…その後、母は車いす生活に『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』自身の体験を力強くそして面白く発信していく理由とは
母の思いと奈美さんのサポート
奈美さんの母は2年ほど入院していました。病気を治療するためでもありましたが、リハビリをものすごく頑張っていたといいます。そして、本当はそこまでできなくても退院できるはずなのに、お手洗いなど身の回りのことはある程度できるようになってから退院しました。 また、家がバリアフリー化してからは料理なども自分でしており、手だけで運転できる免許を取得し自分で運転できるレベルにもなります。 「今考えると、身の回りの世話を学生である私にさせたくなかったのかなと思います。母のなかで家族に任せたくない一線があったのでは…。母の努力のおかげで私は介護をほとんどしていません。したことは高いところにあるものを取ってあげること、外食したときにバリアフリーではない場所で車いすを持ち上げてあげること、車いすを車に積み込む練習に付き合ってあげることくらい。そのため母が車いすになったことで生活に困ったことはあまりありませんでした」 しかし、身の回りや介護のことではなく、母の精神的な部分を支えていきたいと思ったといいます。 母はいつも「歩けなくなってごめんな」「本当はもっとやってあげたいこととかあるし、父が亡くなって大変なのに私のことで心配かけてごめんな」と謝っていたのです。 また、車いすで入れないお店や階段があるお店に出かけたときに「奈美ちゃんがお店の人に謝らなきゃいけないやろ?お店探すのも大変やろ?ごめんな」 と謝ることが多かったといいます。 「基本的に母は元気で明るく面白かったけれど、母がメンタル的に落ち込んで、後ろ向きなときに支えられることってなんだろう?と常に感じていました」
自由なダウン症の弟
そうした中で、弟だけは自由だったと話します。 弟はダウン症のため、中学校までは普通の学校、高校は特別支援学校、その後は作業所へと通っていました。 「弟は弟の人生を彼なりに精一杯生きていました。弟は常に自身の生活で精いっぱいだったので、母へのサポートは一切していません」 また作業所についてこうした問題もあったと奈美さんは話していました。 「作業所もさまざまな特性がありました。劣悪なところは障がい者だからと言って鍵をつけられたり、ここから出ないでくださいと言われたり、いじめとは言わないけれど、厳しい軍隊のような環境になっていました。 弟は行きたくないから作業所に対して不登校になり、1年くらい外に出ない時期もありました」 それでも、弟はうまく話せない、世間のことがよくわからない中で居場所を見つけていくことを頑張っていました。そのため、奈美さん家族は「弟が作業所に行きたくないというので、なんで行きたくないのか、作業所で何かあったのかな、じゃあ合う作業所探そう!」と奮闘して探したといいます。