7カ月以上放置! 日本政府はなぜ中国の「不法ブイ」を撤去しないのか 「潜水艦運用に利用される」
大陸国家から海洋国家へ
ここで覇権主義国家の狙いを理解するために、中国の歴史を振り返りながら、彼らがいかに大陸国家から海洋国家に変貌してきたか、その経緯を検証したい。 日中戦争を経て日本軍が中国大陸から撤退した後、国共合作により共同戦線を張っていた中国共産党と国民党は再び内戦状態に陥った。最終的には中国共産党が勝利し、蒋介石率いる国民党は台湾に逃れている。 その結果、中央人民政府主席に就任した毛沢東が1949年10月1日に天安門で建国を宣言し、中華人民共和国が誕生した。もしこの時、毛が勢いに乗って台湾へ攻め込んでいたら、いまに至る台湾の領有問題は生じていなかったはずである。ところが、毛はそれをしなかった。というより、できなかった。当時の人民解放軍は陸軍が主体で海軍は極めて脆弱だった。彼らはわずか130~250キロの台湾海峡を渡る能力も持ち合わせていなかったのだ。 毛の時代にとどまらず、実質的にその後継者となったトウ小平が指導者として君臨した時代の中国も純粋な大陸国家で、海洋への関心は限りなく乏しかった。むしろまったく海洋に目を向けていない時代だったといえる。毛もトウも、台湾問題は“いずれ解決できればいい”というくらいの感覚だった。 それを裏付けるように、1972年2月にアメリカのニクソン大統領は電撃訪中した際、中国側に〈台湾に関する5原則〉を提示している。そこでアメリカが領土問題の平和的解決を求めると、周恩来首相は“一つの中国をアメリカが認めても、台湾問題をすぐに解決しようとは思っていない”という趣旨の発言をしたことが記録に残されている。
大飢饉と文化大革命
そもそも、建国の立役者となった毛は、台湾問題より国内を治めることに手いっぱいだった。さかのぼって1958年から1962年にかけては、急速な経済の立て直しを企図して、いわゆる大躍進政策を推し進めたものの、非科学的な机上の空論にこだわったことから、推定で1500万~5500万人が餓死したとされる「中華人民共和国大飢饉(ききん)」を招いて大失敗に終った。 責任を問われて権力の座を降りた毛に代わり、劉少奇が第2代の中華人民共和国主席に就任した。ところが、その後も毛は権勢を保ち続けた。毛は学生や労働者からなる紅衛兵を動員して文化大革命を引き起こし、その結果、1000万~2000万の犠牲者が出たといわれる。この時、習近平の父親の習仲勲も収監されて、習近平も地方に下放されたことは周知の通りだ。 加えて、1950年にはチベット侵攻、いまに続くウイグル、内モンゴル等への弾圧が行われ、1962年にヒマラヤ地方を舞台としたインドとの国境紛争が、さらに1969年にはソ連との間にも国境紛争が勃発している。いわゆるダマンスキー島(中国名は珍宝島)事件である。その後、トウ小平に至っては、意に反してソ連に接近したベトナムを「懲らしめてやる」と、1979年に侵攻した。