政治力学交錯の舞台―政治史に残る「音羽の家」と「友愛」理念の強さと弱さ
お坊ちゃんとツワモノども
1954年、鳩山一郎は吉田茂に代わって総理大臣となり、55年には保守合同によって自由民主党が誕生し、56年には日ソ共同宣言にこぎつける。 打倒吉田を旗印として、鳩山邸に集まった面々は、鳩山の盟友で「ヤジ将軍」「寝業師」などの異名を取った三木武吉を中心に、大野伴睦、河野一郎(河野太郎外相の祖父)など野人的なツワモノどもであった。そこに岸信介が加わり、さらに右翼の児玉誉士夫なども登場する。彼らは多く戦争責任を背負って、巣鴨プリズンに収監され、あるいは公職追放を受けた、いわば敗者復活派だ。音羽の家の洋風にも理想にもそぐわない、旧日本的な政治精神の復活である。 また岸は、元官僚で、吉田学校の優等生佐藤栄作の兄でもあり、音羽に参じたのは時代の力学というべきか、政治とはそういうものなのだろう。つまり現在の孫たちとは異なり、吉田(麻生)に対して、鳩山、岸(安倍)が同じ側にあったのだ。 これはよく官僚派と党人派の対立といわれるが、官僚派は、法によって冷徹に動き、党人派は、志によって情緒で動く。つまり志と情緒の野人たちが、理想主義のお坊ちゃんを担いで、官僚たちの法令と冷徹に張り合おうというありがちな構図である。鳩山家は担がれるタイプの「家」なのだ。 とはいえ鳩山会館に展示されている吉田の書簡からは、この二人のあいだに何となく通じるものがあったことが匂わないわけでもない。
大磯・音羽・目白、私邸に人を集める大物
結果として、鳩山内閣もそのあとを継いだ石橋(湛山)内閣も短命であり、その後は官僚派と吉田学校の時代が続く。そしてその住まいを政治活動の拠点とするような人物もいなくなっていたところに、田中角栄が登場する。吉田邸の「大磯」、鳩山邸の「音羽」と同様、田中邸の「目白」が、一種の政治用語となったことは周知のとおりである。 官邸でも公邸でもなく、私邸に人を集めるのは、ズバリ「大物」ということだ。 吉田、鳩山、田中の三人は、いずれも時の権力によって追放あるいは逮捕された経験がある。三つの「家」によって、日本の政治史を語ることも可能だろう。戦前の「音羽」は、大正時代的な理想主義を象徴し、「大磯」は、復興時代の現実政治を象徴し、戦後の「音羽」は、旧日本的政治精神の復活を象徴し、「目白」は、高度成長期の経済と力の政治を象徴する。 しかし最近は、自宅に人を集めるような大物がいない。 今の二世、三世議員は、追放されたり逮捕されたりはしないが、同時にその志と能力が薄弱になっている。何よりも人間としてのスケール感が不足しているのではないか。 鳩山一郎邸の棟まわりには、真っ白なハトとミミズクが掲げられている。ハトは平和の象徴、ミミズクは叡智の象徴である。 筆者の感覚では、洋風とはいえ、少し前にオーストリアなどに流行していたユーゲント・シュティール(ドイツ語圏におけるアール・ヌーボー)の匂いもするのだ。 そこに滲み出てくるのは、友愛の理想であろう。 美しい理想であるが、それが政治信条となったとき、強さと、弱さと、またある種の危うさが共存することは、歴史が教えてくれている。