政治力学交錯の舞台―政治史に残る「音羽の家」と「友愛」理念の強さと弱さ
ブルジョワの理想主義
一郎の父・和夫は、弁護士を経て政治家となり衆議院議長に上った。母は共立女子大学を創設し(共同)、津田梅子などと同様、明治クリスチャン女子教育者の一人である。 つまり鳩山家は、当時一流の知的で進歩的な家庭であり、一郎はそのお坊ちゃんであった。彼の心をとらえたのは、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(ボヘミア、オーストリア系の貴族。現在のEUのもととなるパン・ヨーロッパ主義を唱える。父親はオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使。母親は日本人青山みつで、奇しくも吉田茂の側近白洲次郎の妻正子の師ともいうべき青山二郎の縁戚)が掲げた「友愛」という理念であった。そして鳩山は「フリーメイソン」(秘密結社だが、国際、普遍、人道を旨とする)に所属してもいたという。 こうした理想主義は、武者小路実篤の「新しき村」、有島武郎の「共生農園」など、ブルジョワの子弟が理想郷を建設しようとする白樺派的な思想、ウィリアム・モリスなど、ヨーロッパの貴族的な階級から始まるロマン主義的社会思想につづく時代傾向でもあった。 その意味で、この御殿と呼ばれた家と、鳩山一郎という人物は、明治・大正という文明開化と進歩主義の時代から、昭和という揺り戻し的な激動の時代への、転換点に位置するように思われる。 平成の時代に総理となった鳩山由紀夫が「友愛」の政治を唱え、沖縄の普天間基地移設に関して「最低でも県外」と発言してうまくいかなかったことには、この鳩山家の理念の血筋が働いたようだ。理想主義の強さと弱さを同時に感じざるをえない。
アメリカとソ連の力が交錯
戦時中、鳩山一郎は東條英機を批判して軽井沢に隠遁し、戦後は、GHQによって公職追放にあっている。一時的にではあるが、戦時中の大政翼賛的軍国主義にも、占領中のアメリカ流民主主義にも追われる身であったのだ。理想と反骨が同居している。 当然のことながら、戦後日本の社会思想には、アメリカ合衆国とともにソビエト連邦が大きな影響を与えている。他の多くの国々と同様に、この二つの超大国に沿うかたちで、右派と左派、保守と革新が陣営化された。 吉田は、サンフランシスコで日米平和条約に調印して独立を果たし、その吉田に代わって総理となった鳩山は、モスクワで日ソ共同宣言に調印して国交を回復する。もちろん吉田は保守本流の親米といえる。しかし鳩山はいわゆる親ソビエトの左派でも革新でもない。むしろ吉田以上に、戦前の日本的心情を引きずった党人派の政治家であった。 つまりこの時代は、単純な保守 vs 革新、あるいは右派 vs 左派というのではなく、 アメリカと協調した吉田と官僚派、反吉田を掲げる戦前からの党人派、そして共産党、社会党など親ソビエトの左派と、三つの政治勢力が絡みあっていたと考えた方がいい。そしてそれが現在の、自民党における主流派、反主流派、及び野党、という構図につながってもいる。 政治の力学は交錯する。