イチロー、愛工大名電時代の目覚ましは「“ピ”で止めなきゃいけない」 午前2時起床の寮生活で築いた“世界のイチロー”の礎【独占密着】
午前2時の目覚ましは「“ピ”で止めなきゃいけない」
イチローが仲間と寝起きした寮は、今も使われている。中に入るのは、卒業以来はじめてのことだった。 イチロー:上級生の機嫌でね、醤油を使わせてもらえないんですよ。醤油禁止は結構あったんですよ。マヨネーズ禁止もあったかな。マヨネーズと醤油が混ざるとおいしく、というかなんとか食べれるようになるでしょ。マヨネーズ禁止、醤油禁止、だからおいしいものは禁止。そういう時代でね、このテーブル見るとそれしか思い出さない。 イチロー:お風呂は変わってないね。浴槽大きいね。同じだな。僕がね、ここで3年になって誰よりも早く洗い始めるんだけど、こうやって座ったら、ここに(交流試合で来ていた)松井秀喜が座ってたんですよ。ここですよ。先にもうなんかやってたんですよ。あいつ2年でしたからね(笑) そして、最もキツかった場所。2段ベッドが並ぶ寝室だ。 イチロー:同じだ。ここは2年の時か。この(ベッドの)上にいましたね、僕。よくこれ壊れないで、30何年でしょ。50人の大部屋なんで、目覚ましで上級生を起こしたらえらいことになるんですよ。僕は2時に目覚ましかけて、そこから洗濯を始めるんで。 記者:午前? イチロー:午前です。なかなか「ピピピピ」って音がどうしてもなっちゃうじゃない?でも、「ピピピピ」までいくと誰かが起きちゃうんで、「ピ」で止めなきゃいけない。これやんなきゃいけないんですよ。 記者:それ寝られてないでしょ。 イチロー:緊張感あるからあんまり寝られないわけですよ。でも洗濯機の争い、乾燥機の争いをしたくないんで、独り占めできる時間帯は夜中しかないんで、それを選んだんですよね。 苦しいときこそ、考えてきた。鈴木一朗は、ここで三年を過ごしたのち、やがて「イチロー」となる。
「そういう報告を聞けたら、もっと嬉しい」
イチローには、この時期に思い出すことがある。阪神・淡路大震災(1995年)。あれから、まもなく30年が経つ。当時イチローは神戸市西区にあったオリックスの寮にいた。 イチロー:ものすごい地響きみたいな音がして、寮にでっかいトラックが突っ込んだんじゃないかと思ったんですよ。だからズドーンって言うから。え?こんな時間に。そうしたら揺れ始めたんでこれ地震だと。逃げたい気持ちが。あれ、本能的なものですよね。じっとしてたら駄目だ。でも、立てないでしょ。あの時間中、ベッドの中にいるんだけど、立てない。立てないからもうこれうずくまるしかないと。こうやって布団かぶって。それがおさまって2階に食堂があるんだけれど、もうパンツ1枚で食堂に集まるという、そういう経験でした。あの時は、キャンプの2週間前でしたから、キャンプ無理だなと。少なくとも、初日に全員が集まることはできないと、みんな思ったと思います。だからそこはもう、個人の事情というか状態に委ねられたんですよね。でも全員集まったんですよ。これすごいことだなと思って。そこで何か、僕らがやることをやらなきゃいけないっていうか、やりたいことっていうのは、明確になった記憶がありますね。これはもう今年やるしかないと。 「がんばろうKOBE」その合言葉をユニフォームに縫い付けて、チームはシーズンに臨んだ。 選手と街の思いが、確かな力となった。その年、オリックスは初優勝。リーグ優勝の翌年には日本一に。2年連続の活躍は、神戸復興の象徴となった。 自分のために続けてきた野球。それが、フィールドを超えて、社会に何かを還すことにつながった。野球の、そんな力を知っているから、今も“51番”を背負うのかもしれない。 イチローが、伝えたいこと。 イチロー:野球で結果を残してくれたら、めちゃうれしいですよ。もっと嬉しいのはその先だと思うね。こんな大人になりました、と。そういう報告を聞けたら、もっと嬉しいと思う。野球やってなかったら、みんなと出会っていなかったわけだからね。人との出会いなんてそういうもんですよ、奇跡だからね。そういうものも大事にしてほしい。 僕が期待するのは、そういう人の痛みとか気持ちを自分なりに想像したり考えたりすること。そういう優しい人になって欲しい、というのが僕の一番期待することですね。ただ野球がうまくなってほしい、だけじゃないです。もっと大きなところというかね、そういう優しい人になって欲しいね。みんなどこかで僕を見かけたら必ず声をかけてください。ありがとうございました。頑張ってね。 来年1月、日米で野球の殿堂入りが期待されている。けれどそれはゴールではない。野球とは何か。その答えを探して、イチローは走り続ける。